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Parfum──水を纏う

陽の光が柔らかな午前11時を過ぎた頃。
クライアントに渡す書類を携えて、プラタナスの落葉が残る運河沿いを歩いていた。

通りの古い店先からはさまざまな音と香りを通り過ぎた。時折聞こえてくる昆劇のような音楽、香ばしい肉と野菜の焼ける香り、洗濯物を干すひとの横顔。

行き交うひともまばらな道にそうした日常が僕にまとわりついてくる。

小さな橋を越えて角を曲がると、数人のビジネスマンたちが少し早い昼食を求めて並ぶ店。

不意に親しみ深い甘くてスパイシーな香りとすれ違った。

歩調が自然と緩やかになった。

いつの頃だったか、冬の寒い日。
仲の良かった友人と仕事帰りに神戸の三宮駅付近の交差点で遭遇した。
友人は付き合い始めたばかりの可愛らしい彼女と連れ立って手を互いにしっかりと握りあいながら信号待ちをしていた。

僕は車を運転していて、クラクションを鳴らし、窓越しに声をかけた。

当時、僕は僕なりの大失恋をして一年を過ぎた頃だったと思う。
パートナーを作る気にどうしてもなれなかった。
けれど、ふたりの姿が微笑ましく思えた。

お互いを完全に理解するのは不可能であっても、認め合って、思いやり合って、細く長く続いてくれれば良いな、と僕の勝手な願望を重ねていたと思う。

僕に気づいたふたりが揃って手を振りながら、右折するよう合図してきた。

右折して路肩に寄せ、窓を開けると、ふたり揃って甘い香りをさせながら僕に予定がないなら一緒に食事しないか?と誘ってくれた。

僕は作業着のままで疲れてもいるし、せっかくのふたりの時間を邪魔したくもないから、と断った。

数ヶ月して、僕のもとに結婚式の招待状が届いた。

二次会での彼女の海のようなドレスを見ていたら、ふたりが揃って良い香りを纏っていたことを思い出し、あのときの香水はなんという香水だったのか尋ねた。

ヴェルサーチのエロス

ふたり揃って同時にそう答える様は、何となく、結婚した理由がわかる気がした。

肉体美を誇るエロスは古代ギリシャの愛の神。
情熱的で官能的に自分自身でいることのできる香りに身を包むふたりは瞬間的なものではない深くて優しい満ち足りた時間を僕にも分けてくれた。

後日、僕のもとに友人がエロスをご祝儀返しとして送ってくれた。

それ以来、僕はずっとエロスを纏う。
アフターシェーブローションとシャワージェルもエロスで揃えているほど好きな香り。
仲睦まじいふたりを思い出す。
彼らとは、もう5年近く会っていない。

青の深い甘やかな香り。

きっと冬の運河ですれ違った見知らぬ誰かが素敵な誰かのために、あるいは、自分自身の情熱のために、水の深い青の官能愛を身に纏っていたのだと僕は思う。

美しいひとはいつもとても良い香りがする。
心を優しく美しくしていたい。

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