言葉への誠意
言葉への誠意
言葉を発すると、それはそのひとの知性と人格を反映するときがある。
とくに、褒める・同調する/貶す・反対するといった極端な場合、それは顕著に発したものを線描する。
言語能力や読解力の差というよりも、おそらくは他者とのコミュニケーションと経験の密度に大きく依存するだろう。
愛に欠乏したひとに他者への寄り添いを求めても、不可能に近しく、それには欠乏したものを充填すべきことが先決であるように、あるいは、満ちたりた生活でしか過ごしてこなかったひとに他者の異なる状況理解を求めても、上っ面だけを掬い上げられて、本質は一向に理解されぬように。
言葉でひとは考えるのは自明かもしれないが、他者との関わり合いの中でいかに心をフラットにして謙虚に経験を吸収できるかで考える視座や他者の言葉の理解力が大きく変わる。
じぶん以外の他者を認めて語られる歴史の中心を掴むことは、骨の折れる面倒なことでもある。
傲慢さや不誠実さは、それらの対極になり、理解し合うための努力の過程で邪魔にしかならないものだろう。
丸山眞男は『日本の思想』の中で「思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されないという「伝統」」について指摘している。
要するに長きにわたるお上に逆らうなという封建制度や士農工商といった慣習伝統が、批判し合うことを良しとしなかったのであろう。
とは言えども、江戸時代、社会風刺として川柳が流行ったのは、大衆の本音を遊びに変えてお上に逆らっているわけではない、というダブルスタンダード的スタンスから批判精神を羽ばたかせることができたからかもしれない。
我々にとっての一般的な言葉の誠意も、こうした背景に基づいてしまっているのだろうか?
ところで、最近、国の官房長官が歴史を改竄しているようなおかしな発言を平気でしている。しかしながら、そうした人間だけでなく、一歩間違えれば、己も小さな保身のために相手の表層のみを捉えて粗探しし、無意味な攻撃と自己反省を引き換えにしかねない。それで国際社会の一員としてやっていけるのだろうか。
過去の反省なくして未来をより良いものにはできない。
歴史、記憶の記録を改竄するのは言語道断である。
反省とは不在者たちの残した言葉、歴史に誠意を持つことでもあろう。
100年前、1923年9月1日における関東大震災では、内乱の事実がないのに、デマに基づき、官民で朝鮮人虐殺が行われた。
こうしたジェノサイドの責任追及をやめてはならない。それは新たな過ちを犯すことにも繋がる。
誠意とは、正義とまったく違い、互いにコミュニケーションを取る上で、傲慢さと「じぶんが正しい、自分が優位である」などといった馬鹿げた誇示するラベル、すなわち幻想を取り去らねば示されない行動のこと、行動そのものであるのかもしれない。
真夜中に摘んだブルーベリーを見つめながらそのようなことを考えていた。