イン・ザ・ペニー・アーケード
ミルハウザーと同じぐらい、ミルハウザーが好きな自分も好きで、それは何故だろうとずっと分からないでいた。魔術師、百貨店、機械人形、移動遊園地など、ミルハウザーの描く一種怪しげで魅惑的な世界に魅かれていたのはもちろんなのだけど、決してそれだけじゃなくて、なんだろう自分という存在の根幹に関わるような……。そして最近改めて全作品を読み返してみたら、その理由がなんとなく分かった。ミルハウザーを読むことは、ある種の生き方に対する決意表明で、そしてそれはまさに表題作の『イン・ザ・ペニー・アーケード』で少年に起こるエピファニーなのだな、と。
例えば、アウグスト・エッシェンブルク。天才的な才能を持つ機械人形職人の話で、機械人形物といえばホフマン的なものを想像するかもしれないけれど、怪奇に寄らずにあくまで天才の葛藤を描いているのが特徴。文学部的な読み方をするとミルハウザーのアート論そのものなのだけど、とにかくまるで懐中時計の中を覗いているような精緻な描写がすごい。が、決して取扱い説明書のようにならないで、喚起されるイメージはただただ美しい。これぞ職人技。職人といえば、芸術家VS職人というテーマも大きな部分を占めていて、民衆の俗物精神を商売道具にする世渡り上手のペテン師(芸術家)と一切の妥協を許さず自分の信じる芸術の道を進むアウグスト(職人)との対比も、いんちきばかりの世の中からほっと一息吐かせてくれるよう。
長編『マーティン・ドレスラーの夢』では、主人公のマーティンは葉巻商の息子からベルボーイを経て、ホテルの経営者になるのだけど、とにかくそのホテルがスゴイ。遊園地をはじめ、動物たちが歩き回る牧場、本物の森や滝、果ては巨大な地下迷路など常識では考えられない施設が増設され、それは本物の世界が人工の世界に凌駕される勢い。が、あまりにも度を越した構想に、次第に経営が怪しくなり没落して行くのだけど、それは人形職人アウグストも一緒。人形劇のエンターテイメント性を拒絶するアウグストの劇場は次第に民衆から見放され、セックスを売りにした人形ショーに駆逐されてしまう。が、それでも一切自らの信念を曲げないミルハウザーの主人公たちが私は大好きだし、そんな主人公を描き続けているミルハウザーがいるから、やっぱり今日も生きていけるのです。
やはり読書狂ともなると、長年の読書で培われたアンテナで普通なら見えないことも見えてしまって、うんざりとした気持ちになることもしょっちゅうだけど、ミルハウザーを読んでいると、そんな偏屈な部分が自分のいいところなんだとこっそり確認できる気がする。下らない俗物になるより、生きづらくとも自分の信じるものに忠実でありたい。とも思ったり。とにかくインスタグラムの真逆というか、インスタント感のまったくない、これでもかと作り込んだ緻密なミルハウザーの世界は想像力とストイックな努力の結晶であり、文学のある一つの頂点なのではないでしょうか。
ちなみに私の昔の携帯のアドレスは、millhauser@vodafon.co.jp でした。はい。