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20・フィクションだからこそ、ゆるせる──『鬼滅の刃』に学ぶ
『絆と読書〜AI時代の「好き」と「身体の声」を取り戻す13の扉』
第9章 ゆるしと読書
20・フィクションだからこそ、ゆるせる──『鬼滅の刃』に学ぶ
※『鬼滅の刃』の重要なネタバレが含まれます。未読の方はご注意ください。
漫画『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴。集英社)は、一見すると勧善懲悪のヒーローものに思えます。
鬼という絶対悪と戦う、正義の味方・炭治郎。
この構図だけを見ると、「悪を倒してバンザイ!」という単純な物語のように見えます。
しかし、この作品が他のバトル漫画と決定的に異なるのは、鬼を討った後の描き方にあります。
炭治郎は、鬼を倒すだけでは終わらない。
消滅する鬼にそっと寄り添い、その人生の最後を看取るのです。
そこではじめて、鬼たちの過去が明らかになります。
彼らが鬼になるしかなかった理由、生きたかったのに生きられなかった痛み、愛されたかったのに愛されなかった哀しみ。
そうして、私たちは気づかされるのです。
「鬼は、もともとは人間だった」という当たり前の事実に。
そして、鬼に同情し、共感すらしてしまう自分に驚きます。「悪人をゆるす」という感覚を超えて、「悪人の中に愛を見る」という体験が、私たちを試してくるのです。
『鬼滅の刃』の鬼たちは、ただの「悪」ではありません。彼らはかつて人間であり、何かしらの絶望を経験し、救いを求めた結果、鬼になってしまったのです。
遊郭編のラスボス、上弦の陸・妓夫太郎と堕姫の兄妹。
彼らは遊郭の最下層で生まれ、生きること自体が苦しみでした。人間の社会に見捨てられ、理不尽な暴力にさらされ、「人間として生きること」に絶望し、鬼になる道を選ばざるを得なかったのです。
もし彼らが違う形で救われていたら──。
彼らは「悪」なのでしょうか?
確かに、鬼として人を喰らい、数えきれないほどの罪を犯しました。しかし、その前に、彼らは「弱い人間」だったのです。
普通のバトル漫画なら、主人公が敵を倒した時点で、話は終わります。しかし、『鬼滅の刃』では、鬼が倒されてからが本番です。
炭治郎は、鬼に刃を振るうことをためらいません。
けれど、鬼の最期には必ず寄り添い、その人生を静かに見届けます。
そう、妓夫太郎と堕姫が消えるとき。
二人は鬼としての姿を保てず、燃え尽きたように消えていく。
そのとき妓夫太郎は、妹に向かって「俺についてくるな」と言い放ちます。しかし、堕姫は兄を追いかけて、泣きながらしがみつくのです。「絶対離れない。ずっと一緒にいる」と。
そして、妓夫太郎と堕姫の兄妹は塵となって消えていきます。その舞っていく塵を見上げ炭治郎は呟くのです。
「仲直りできたかな?」と。
妓夫太郎と堕姫は、鬼になり道を踏み外した兄妹。
炭治郎と禰󠄀豆子は、妹が鬼になっても道を踏み外さなかった兄妹。
けれど、一歩何かが違っていたら、炭治郎たちも妓夫太郎たちのようになっていたかもしれない。
もし炭治郎に、導いてくれる人がいなかったら?
もし禰󠄀豆子が、完全に鬼としての人格を失っていたら?
「彼らと自分は違う」と思っていたはずなのに、
ほんのわずかな違いで、どちらの道にも転がっていたかもしれない──
そのことに気づいていた炭治郎は妓夫太郎に優しく触れるのです。
「もし自分が違う道を歩んでいたら?」
それは、読者である私たちにも投げかけられる問いです。
愛すべき悪人がいるのではなく、愛せない悪人がいるのでもなく、愛すべき人の悪い行いだけがある。
『鬼滅の刃』は、そう私たちに語りかけてきます。
悪をなした人を、ただ悪人として断じるのか。
それとも、彼らの行いを悪と認めつつ、その奥にある「愛すべき人」としての存在を見ることができるのか。
「悪い人を罰する」のではなく、
「悪い行いを罰する」
もちろん、どんな事情があれ、許されない行為はあります。社会にはルールがあり、罪には罰が伴う。
しかし、ここで大切なのは、悪い「人」だから、その人の存在を否定して罰するのではなく、悪い「行い」だから、その人の存在を愛しながら罰するという考え方。
たとえば、妓夫太郎と堕姫は、多くの人を殺しました。その罪は、裁かれるべきものでしょう。しかし、炭治郎は彼らを憎んで罰したのではなく、鬼としての罪を認めつつ、かつての人間としての彼らに寄り添った。
それが、鬼と戦う『鬼滅の刃』が、単なる勧善懲悪ではなく、「ゆるし」の物語でもある理由です。
『鬼滅の刃』の鬼たちは、
「もし自分が違う道を歩んでいたら」という問いを投げかけてきます。
それはつまり、自分の過去や弱さをどう受け入れるかという問いでもあります。
私たちもまた、過去に後悔していることがあるかもしれません。あのとき違う選択をしていれば、と思うことがあるかもしれません。
でも、それでも。
もし、炭治郎のように「鬼の中に愛を見出せる」なら、私たちもまた、「自分自身をゆるす」ことができるのではないでしょうか。
現実では、絶対に許せないことがある。けれど、フィクションの世界では、敵の過去を知り、彼らの視点に立つことができる。そして、「もし違う道があったら」と考え、心の中でゆるすことができるのです。
その経験は、現実の人間関係においても、ふとした瞬間に思いがけず役立つことがある。
フィクションの中で、ゆるしを体験することが、私たちの現実に変化をもたらすのかもしれない。
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