人工内耳とコミュニケーション文化の話
ろう学校の先生には「人工内耳には否定的」という人もいるらしい。
これを知ってすぐに思い出したのが、神経内科医オリヴァー・サックスが紹介していたケース。
生まれつき盲目の人が治療を受けて見えるようになったが、かなり戸惑って「見えないままが良かった」と言う話があった。その人は「遠近」「透明」などが分からず、戸惑い、混乱したという。
人工内耳も、当事者が「やらないほうが良かった」と言うことがあるのかもしれない。そして、人工内耳に否定的なろう学校の先生は、もしかするとそういう「やらないほうが良かった」という体験談をどこかで見聞きして、それが強く印象に残りすぎているのかもしれない。
人工内耳の手術を受けるのは、本人の感覚的には「いまとは違うコミュニケーション文化の国に引っ越す」くらいのインパクトがあるのではなかろうか。
そのことは親や周りがかなり意識しておくべきで、「聴こえるようになって良かったね~」だけでフォローがないと、本人はけっこう苦しいだろう。
近くにあるろう学校に通う人たちを見ると、会話は必ず「相手の肩を叩く」からスタートする。
この時点で健聴者のコミュニケーションとはかなり違う。
健聴者は、人に話しかけるときに肩は叩かなくて良い。
そして、人から肩を叩かれなくても、名前を呼ばれたらそちらを向く。
こういうところから身に付けないといけない。
人に話しかけるとき毎回のように肩を叩くと、たぶんちょっと嫌がられる。逆に、肩を叩かれるまで振り向かないと、これもまた嫌がられる。
新しいコミュニケーション文化を身に付けるのは、想像するよりは大変な作業のはずだ。
あくまで例え話だが、身長がある日急に20センチ高くなったとしたら、きっと視点の高さに戸惑ったり怖くなったり、あちこちで頭をぶつけたりする。それと似たようなことが、人工内耳をつけた人でも起こりうるということだ。
(ただしまだコミュニケーション文化が深くは定着していない乳幼児期は除く)
かくいう私は、人工内耳に反対ではない。
医学生のときに耳鼻科の授業で見た「人工内耳で初めて音を聴いた少女」の写真にうつっていた笑顔が忘れられないから。
この写真を見たとき、
「ああ、こういう機械を開発して人を救ける職業があるんだなぁ」
とすごく感銘を受けたことを、20年以上がたったいまも覚えている。