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死者に雨を、生者に傘を
原爆忌の今日、天気予報は晴れだった。
だが、十一時を過ぎた頃から雲行きが怪しくなり、やがて土砂降りになった。
大学の講義室前の階段に、高齢の男性が独り座って雨を眺めていた。
私は講義室に戻り、ずっと置き去りにされて埃まみれでボロボロになった傘を拝借した。そして、彼に「どうぞ」とその傘を差し出して気づいた。
雨を見ながら、彼は泣いていた。
原爆に遭った人たちは、喉をカラカラにして亡くなったと聞く。
この雨は、渇いた魂たちに対する慰霊の雨なのかもしれない。
そういえば、近くの公園では慰霊祭があっているはずだ。
きっと参加者はずぶ濡れだろう。
慰霊の雨を喜んでいる参加者も多いんじゃないだろうか。
そんなことを考えながら大学内を歩いた。傘を叩いて零れ落ちる雨は滝のようだった。
慰霊の雨とはいえ、自分が濡れるのはいやだった。
黒い服を着た人たちと擦れ違った。
きっと慰霊祭の参加者だ。
みんな、コンビニの傘をさしていた。
びしょ濡れの人はいなかった。
慰霊祭を抜け出して傘を買いに行ったのだろう。
いくら慰霊の雨とはいえ、誰だって我が身が濡れるのはいやなのだ。
目の前の問題に四苦八苦すること。
それが、生きている、ということなのかもしれない。
コンビニの傘の群れを見ながら、とりとめもなく考えた。
ふと見やれば、離れたところを、先ほどの男性が傘をさして歩いていた。
死者に雨を、生者に傘を。
(2005年8月9日)
8月6日と8月9日の、特に午前に雨が降ると、原爆で亡くなった方々の渇きを癒してくれているようで、ホッとした気持ちになる。