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読書体験の共有に関して:「情報」と「体験」ということ

 こんにちは。

 読書会を行う目的は様々に考えられますが、私の場合は読んだ内容を、情報としてだけではなく、体験としても共有していくことを、その目的の1つとしてカウントしたいと考えています。今回の記事では、「情報のための読書」と「体験としての読書」の対比ができればいいなと思っています。

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 読書には、こうした「情報としての読書」と、「体験としての読書」という2つの側面があるように思われます。留意しておきたいのは、このうちの一方が、他方に比べて価値的に勝れているということではないということで、両側面とも必要なものだということです。とはいえ、次からの記述においては、「体験としての読書」に比重が置かれるのではないかと予想されるものです。

 まず、「情報としての読書」については、例えば新聞や学術論文などを読む時のように文章と接する態度であると言えましょう。「より」新しく、多く、正しく、速くということ、または再現や複製が可能という、どちらかと言えば量的な側面が重視されるものと考えます。これはこれで必要なことです。しかしこの駄文の中では、それについての考察を、これ以上には行いません。

 一方で、「体験としての読書」とは、より個人的なものであり、一回限りのものであるものとされるでしょう。問題は、そうした個人的かつ一回限りのものである「体験」を、どのようにして「他」に対して開き、共有していくのかということになるでしょう。ここではさしあたって、「言語化」を通じて体験の共有が図られるとしておきたいと思います。

 なお、この「共有」ということの中には、体験の「一般化」ないし「普遍化」という側面が含まれてくると考えます。この二者を厳密に腑分けすることまではできませんが、「個」としての体験を、共有していく過程で行われる作業であることにはかわりはないとだけ申し上げておきましょう。

 さて、こうした「一般化」ないし「普遍化」の作業は、今のところ「言語化」とほぼ等価であると思っています。つまりは、語ったり書いたりということで「他」に開くことで、「他」からのアクセスが可能となるようにすることです。この作業は重要です。少なくとも、しないよりはする方がよい。なぜならば、私の乏しい経験からしても、言語化することを通して残すようにした形でしか、自分の中には「経験」としては残らないということがあるからです。なので、言語化する努力はした方がよいと言えます・

 そうして言語化されたものは、他に対して開かれ、共有されるようになります。そのプロセスの1つとして、「読書ノート」をつけたり、「読書会」を開いたりということがあるのだと考えています。

 そのプロセス自体は、手間がかかります。しかし、その手間を乗り越えてでも、他とつながった時の悦びは大きいのではなかろうかと思っています。

 今回の駄文は、以上とさせていただきます。なお、ここまで読んでいただいて、もしカンパをしてもいいなと思ってくださいましたら、この先に進んでくださいますようお願い申し上げます。最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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