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【杜のラボ】語りが成り立つとき

こんにちは。4月30日(土)04:28です。昨日今日は寒いくらい。

27日(水)に、コールセンター業務やカウンセリング研修での経験を元にして、「聴く」「話す」についてTwitterスペースでお話しいたしました。今日のnoteは、いわばその姉妹編です。どんな時に人の「語り」は成立するのか、あるいは人は「語り」はじめるのか。そんなことを考えてみたいと思います。どうぞおつき合いください。

ぼくがこれに類することを考え始めていたのは、比較的早くからでした。当初の関心は、人はカメラやマイクを向けられたときに饒舌になるという点であって、そこからよりよき「対話」に向けて進めるための諸条件を考えてみようと思ったのです。仮のタイトルもあってまだ覚えているのですが、「発話の様態と対話に場」というのがそれです。それを考えていたのは、コールセンター業務や、カウンセリング研修に先立つものだったと記憶しています。そして、どうやらこの問題意識は回収されて、先日語ったことに接続されるように思えるようになりました。

この他にも、少し考察するにあたって刺激になったことがありましたので挙げてみますと、

①信仰実践としての「体験発表」
②アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』に受けた触発

あたりが視野に収まってきます。

①信仰実践としての「体験発表」

教団名の公表まではご勘弁いただきますが、ぼくはとある仏教系の教団に属しています。ただし熱心な構成員とは言い難いと思っています。そこでは、日常的な読経や布教活動などと併せて、自身の信仰体験を「体験談」として語り、それを構成員の集いで語り合う「体験発表」が重要な信仰実践として位置づけられています。大事なことは、何を自身の「信仰体験」として捉え、発信・共有するかということなんだと考えています。

この「体験談」「体験発表」の実践は、この信仰を称えることと直結しており、それ自体が「価値あること」として、また「功力がある」こととして考えられています。信仰体験を語ることが奨励されるわけです。また、その「体験談」を編む過程は、信仰観の強化や深化、洗練に結びつくものと考えます。

②アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』に受けた触発

もう一つは、昨年(2021年)8月にEテレ「100分de名著」で取り上げられていた、アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』から受けた触発を挙げておきたいと思います。現時点では、未だ岩波現代文庫版は読了できておらず、また、最近コミック版の第3巻が刊行されました(これも未読)。しかし、この番組とコミック版の既刊分2冊から受けた触発は、強いものがありました。

この本(の一部)と放送内容から察せられる内容ですが、独ソ戦に従軍した旧ソ連の女性兵士へ行った膨大なインタビューがまとめられていて、アレクシエーヴィチの類まれなる「聴き手」としての能力によって、元女兵士たちの重い口が開かれていくというものでした。

ここから察せられることとは、(よき)「語り」とは、(よき)「聴き手」を得て初めて成立するものではないかということです。そうされることで、語り手は、歴史に「参加」していくのだろうと思うのです。そう、「聴く」とは歴史の「形成」や「現前」に関わる創造的な営みなのです。

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①②を通して考えられることは、「聴く」ことと「語る」こととは、相補的に立ち現れる歴史の「再創造」なのではないかということです。体験を「紡ぐ」ことと、その現れに関わること、つまり「聴く」ということとは、何を未来へと遺し、何を伝えていくかという、歴史への参画に他ならないということなのでしょう。

あなたは、今日、誰に語り、何を伝えますか――。

あなたは、今日、何を聴き、後代へ伝えていきますか――。

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今日はここまでです。お読みくださり、ありがとうございました。それではまた!





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しょうじ@マチナカ読書会
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