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旅に出ることに意味があるなら「旅の効用 人はなぜ移動するのか」(ペール・アンデション)

個人と社会の様々な事象に対するリテラシーがついてしまうブックキュレーションプラットフォーム Book Club。本好きな2人が「世界の見方が変わってしまうような本」を紹介していきます。


旅に出れない時代に

今回紹介するのは、「旅の効用 人はなぜ移動するのか」

スウェーデン人の旅行作家であるペール・アンデションによる作品で、旅にまつわる体験記・考察・取材などが入り混じった一冊である。

思えば、この本を手に取ったのは、昨年のこと。旅に出ることが難しくなった時代に旅のことを考えるだけでもしてみたいと思って手に取った。実際には読み出すまで1年以上の時間がかかってしまった。すぐ戻ってくるだろうという日常が戻る気配はなかったから。

今や、私はこの「新しい日常」を当たり前のものとして受け取れるようになった。他の都道府県に行くのですら、いたたまれないのに、ましてや外国なんて。

この「新しい日常」が始まった去年の3月。私は泣く泣く学生時代以来の海外旅行のチケットを手放した。旅への期待、「ここではないどこか」への憧れが簡単に消えていく時代になった。

旅に出る理由と「効用」

なぜ旅に出たいと思っているのだろう。

私にとって一番大きかった旅の経験は、学生時代のトルコ留学だ。ただあの時のような感動はないだろうなとも思う。人生で初めて親元と自分の見知った国を離れた学生の自分と、一人暮らしをしながら仕事をしている今の自分では見える世界も違う。(だからこそ、旅に出たいともいうのだけれど。)

あの世界と改めて出会うような感覚が私にとっての「旅の効用」かもしれない。

不機嫌という病を治すにはまず、自分の安全領域から外に飛び出すことだ。そうすれば、すべてをコントロールしなくても日々がうまく運んでいくと気づくこともある。いったん異文化の中に身を置けば、足が地に着かなくなっても「すべてうまく行くだろう」と信じることができる。

旅に出れば、不安定さが常につきまとう。予測不能な事態は起きる。海外ともなれば、常に自分をその地の住民として守ってくれていた母国の法律は、もはや関係ないものになる。むやみやたらに奇異なものをみる視線が自分たちに注がれることもある。コントロールの効かない居心地の悪さ。

この本の15章では、実際に「旅の効用」を研究した結果についても書かれている。旅に出た人々は旅に出ない人々より成熟するのが早いらしい。予測不能な事態に慣れていくのだ。

それに旅に出ると、自分の人生の儚さとか、頼りなさに気づくことができる。

旅をすると時折、周囲と何のつながりもないことに悩む。よそ者であることをもっとも強烈に感じるのは、一人旅をしていてヨーロッパの都市に到着した時、故郷の町を思い出し、日常生活のことを考える瞬間だ。(中略)        だが私は混雑の中で流れに逆らって歩道を進み、中央駅へと向かい、リュックを担いでプラットフォームをめざす。好奇心に満ちた顔つきをしているが、それこそは私が地元民でない証だ。私は誰にも必要とされていないし、誰かを必要としているわけでもない。次に何が起こるかも分からないが、ともあれ、私を待っている人は一人もいない。

土地を離れれば、たった一人の人間に過ぎない。そんな風な感覚がこの本では言葉にされている。

私を待っている人は一人もいない。

そんな風な責任からの逃避を求めて、私は新たな居場所を求めて旅立つのではないだろうか。ひとつのところに根を下ろすことに憧れつつも、多くの人々が必要に迫られ、あるいは自ら望んで移動し、新天地を目指す時代になった。

なぜはインドへ向かい、私はヨーロッパへ向かうのか

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この作者、ペール・アンデションは、インドには「帰る」と表現する。それほどまでにインドという地に惹かれ、あの雑踏の中に戻ろうとしている。

トルコに留学した頃、日本人だと言って、その場でオランダ、スペイン、EUからの学生に言われる反応が気になった。

「日本や中国、そういうアジアの国にすごい行きたいんだよ!とってもエキゾチックだよね。」

そんな風に日本人の私と中国人の留学生の前でいう学生に限って、日本と中国の外交問題、歴史問題については全く知らない。その上、私たちはもう十分にエキゾチックなトルコに来ているのだが。

今思えば、この本の作者も、彼らの中にも、オリエンタリズム的な羨望は今でも続いているのかも知れない。「まだ見ぬ東洋」に憧れる西洋。サイードの「オリエンタリズム」には、正しくその羨望から西洋の人々が東洋に向かい、自らの鋳型にはめて解釈していく姿が捉えられている。

そして、私自身、トルコという地に最初はそんなオリエンタリズム的な羨望を持って降り立った。しかし、そんな風に人々がくる場所も、より良い生活、より西洋的な何かに憧れて、世界中はどんどんと同じような場所になってきている。私のトルコへの見方も西洋的なオリエンタリズムの視点に染まったものだった。ーーー実際に降り立つまでは。

私たちはやはりいつでもないものねだりなのかも知れない。そして、自分たちのいる世界とは違う世界にいくことで、自分たちのいる世界を新鮮な目で見ることができる。そして、現実の世界をみて、自分の世界観を修正することを迫られるのだ。

旅、観光、探検

この本を読んでいる時期に読んだ本がある。

ひとつは、東浩紀・著「観光客の哲学」。

この本では、ナショナリズム、そしてグローバリズムの時代に、それらを乗り越えていく新たな連帯が「郵便的マルチチュード」=「観光客」の原理ではないかと提案される。現実に、経済=欲望の元では世界はより繋がるようになっているが、政治=頭脳は未だに国家に縛られ追い付けていない。その隙間で必要とされるのが「観光客」のような存在だ。

観光客は住民に責任を負わない。(中略)観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけ消費して帰っていく。

そのようなふわふわした不真面目な主体が、新たな連帯をもたらす可能性があるという。

確かに、私はそんな無責任さ、無責任な移動に憧れを持っているところがある。その新たな地で私は人と交わる。世界を知る。偶然の出会い=誤配が観光の中では重要だからだ。そんなところから、「無責任に」より良い世界のことを考えたりしているのが「旅の効用」でもあるだろうと。

(ちなみに来年には増補版も刊行予定である。)

もう1冊は、角幡唯介・著「アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極」。

19世紀イギリスのフランクリン隊が北西航路を求めて、北極で全員遭難した。生きて帰ったものがいなかったその道を辿る探検である。なんとソリを引いて、北極に挑む。

なぜそのような無茶な道に行くのか。人がいない場所に未踏の場所に足を踏み入れることはそんなにも尊いことなのか。人との交わりを求めてではない旅、探検。

角幡氏の作品に触れ、「人がいないところには行けないな」などという人並みの感想を持ってしまった。なぜ自らを追い込んで、その先を見に行きたいのだろうとも。

ただ、その極地だからこそ、体験する壮絶な生死をかけた葛藤に感動もしてしまう一冊だ。きっと同じ探検に出ることはなくとも、その世界を垣間見れるのが本の良いところでもあると気付かされた。

旅をしながら生きる

ひとつの場所には止まれない。だからこそ、あたらしい世界を無責任に眺めて、あたらしい自分を発見する。そんな営みのために生きていく。

自分の人生に対する覚悟を試されるような一冊だった。少なくとも、私にとっては。

皆さんにとってはどんな一冊でしょうか?


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