動物愛護について

動物愛護はスペクトラムである。

全ての人間は動物への倫理について灰色で、誰も彼も黒が混じっているからといって全員真っ黒と言っては厳密さが少し足りない。

主張をまず書き、ゆっくり議論を進めていこう。

主張:動物に対する人間の倫理観の基準は、持ちうる知識・時代背景によって各個人ごとに大きく変わる、しかしながらどの基準であっても善悪二元論に陥ってはならず、善さと悪さが連続してつながっている、すなわちスペクトラムとして捉えるべきである。

よく目にするので飽き飽きしているかもしれないが、まずデカルトの考えを見てみよう。『方法序説』の第五部をみると

デカルトの主張:動物や機械は人間のかける言葉に対し、適切に言語を按排して応答するということがない。また、人間とどれほど似た動きをしていてもその動きのみを行う機能があるだけで、理性という汎用性のあるものから導かれたものでなくその動きについての自覚もない。以上2点から、動物や機械に精神はない。

と要約できる。ここで我々と違うのは心身二元論の立場にいて、例えば肉体とは異なり精神は永久に不滅と考えたりしていることだ。よって、我々は動物の脳神経が人間の脳神経と近いほど人間と近い精神を持っているのではないかと考えるのに対し、デカルトは肉体の類似性は精神の類似性とは無関係で、むしろ肉体的に似ているにも関わらず人間の精神から導かれる行動がないので動物には精神がないと考えている。

ここで反論になるような事実を用いてデカルトと議論してみよう。

『哲学の探求』p4を見ると人間と対話できるチンパンジーの話がある。彼は700の文章を理解し、1000の単語を聞き分け、例えば「ミルクをゼリーの中へ入れなさい」と「ゼリーをミルクの中に入れなさい」の構造の違いを理解して正しく行動できる。これはデカルトの想像していた動物の行動を超え出ていて動物に精神がない理由の1つ目への反駁になっているのではないだろうか。

しかし、デカルトはこう反論するだろう。これは人間の言葉の理解にとどまり、自分から発話を行っている例ではない。これは身体が人間と似ていると同じ話で、汎用性のある精神から当然導かれる発話がないのだから精神を持っていない。これは心身二元論において身体に属する機能である。

京都大学霊長類研究所をみると霊長類についての研究は莫大になっている。軽く調べただけでも「チンパンジーの比較認知研究の現状」「チンパンジーから人への大きな飛躍:言葉の獲得に関して」といったおもしろいものがあった。ただ、どれほど人間に近い霊長類の機能を示してもデカルトは人間に近いと考えることはなく、その度に心身二元論に則ってそれは身体に属する性質で、精神とは関わらないと反論するだろう。

つまりデカルトは心身二元論より人間・動物二元論を導いている。似た話を繰り返せば心身二元論より人間・機械二元論(機械というより人工知能といったほうが分かりやすいかもしれない)も導く。

これら二元論をきちっと潰すのはなかなか難しそうだが我々はかなり違和感を感じるだろう。私は先に主張を述べたように動物愛護についても等しく二元論に違和感を感じている。私の主張を論理的に正しいと示すのは無理難題だが、主張を自然に感じる状況証拠となる事実をいくつか挙げようと思う。そしてそれが私の限界だ。

まずデカルトではない普通の人が持つ、なんとなく別種と思う人間・動物二元論について。これを土台にして強い人間が弱い動物を保護すべきという意見が素朴に生まれる(ここで強い・弱いは同格の形容詞)。しかし、我々の感じるところ、親しい人間もいれば無関係な人間もいて、同様に可愛がる動物もいれば実験に扱われる動物もいる。無関係な人間よりは飼っている動物に尽くす人が多く、人間・動物という差よりも個体差の方が我々の行動へ大きく影響を与えている。別の切り口を見ると、日本では豚の無麻酔の去勢が年間数万頭は行われており、対してアフリカの地域で無麻酔での女子割礼が年間数百万人に対して行われている。これは普通の人の人間・動物二元論に立てば全く別種の問題である。しかし、スペクトラムとして捉え、両方の苦痛は人間の脳と豚の脳の類似性(例えば『脳神経生物学』p3〜6参照)だけ近い問題だと考えることになる。スペクトラムの方が自然に感じないだろうか。

先程のデカルトの議論と相似な構造を持ち、人間・動物二元論は動物愛護についての善悪二元論の土壌となる。それに反対して人間・動物の差異をスペクトラムに捉えたことより動物愛護についてもスペクトラムが導かれる。

食事に限らず医療を受けているならば人は誰しも動物の命や苦痛の上に立っている。薬学部においてネズミに経口投与を行うがその管を口に差し込むのはややコツがいる。失敗すると体の内側に損傷を与えることになる。実験の技術を伝達する上で排除できない部分である。命を頂くというきれいな言葉ではなく、ネズミの内臓の損傷という痛みの上に私達の医療は成り立っている。デカルトの人間・動物二元論に立てば全員白で、ふつうの人の人間・動物二元論に立てば全員黒となる。しかし、ここでもスペクトラムである。ネズミと人間の脳はどれほど近いか、その実験によってどれほど人間が救われるかこの2つを天秤にかけて黒い度合いを気にするというのがスペクトラムな考えである。ネズミ何匹の命と苦痛が人間一人の治療に相当するのか…人間と動物の差異についてのスペクトラムからこの疑問が自然と生まれた。

なぜこんな当たり前のことを長く語っていたのかという感覚になってもらえていれば、それに賛同するかは関係なく、幸いである。

以上で私の話は終わりだが、重大な見落としがある。動物愛護について語ると、自分の行動の根源規範に動物愛護が置かれ、その考えを元に行動する感覚になってしまうが、そう現実は許してくれない。思考はツリー構造のようで今は最も根の部分に動物愛護が置かれている。しかしそれは今の自分だけの現象である。動物愛護から肉食を控えるとしても、人と食事をする場合に、例えば政治の話をしないように食事においてイデオロギーを持ち込むなという雰囲気がある。かなり大雑把な意見だがその空気に出会うことが頻繁にあるのではないだろうか、私はまだ動物を食べ続けているので困ったことはないのだが…🐈🐈🐈

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