心に浮かぶ、泡沫のような
今日は書けない日だ。
PCに向かった瞬間それが分かった。何も頭に思い浮かばないし、とりあえず長編の続きを、と思って原稿用紙で10枚分くらいは書いてみたけれど、どうにも気に入らないので、削ってまた書き直すかも。
短編も考えつかない。昨日「白麗」でアイデアを使ってしまったので、空っぽだ。昨日は昨日で長編がまったく書けないので短編に逃げた形。
長編はアクションシーンが多くなってしまっているのが不服。なんだか困ったら暴力に逃げているようで、発想が短絡的で美しくない、と思ってしまう。かと言ってミステリーのように論理を構築して事態を打開する、みたいなのはあんまり得意でない。
そこが得意だったら、もっと書けるものの幅が広がるのになあ、と思う。
最近書いた「白麗」も「雷火」も、怪異が登場する短編だ。
私が書くと、怪異などの妖しい存在は女性の姿をとって現れる。多分これは私が男性で、女性というものが、永遠に体験することのできない未知の存在、という意識が根底にあるのだと思う。人はなんだか分からないものを恐れるし、恐いものを書こうと思ったら自分が恐いと思うものを書く。
一方で、そもそも怪異なのかなんなのかよく分からない存在、物語のトリックスター的な存在としてキャラクターを造形するとき、私はそのキャラクターに男性を選ぶ。
これは、どういう心理なのか。もちろん私が男性なのだからということが根っこにあるのだろうけれど。それは古来トリックスターとして描かれる存在が、男性が多いという認識によるのかもしれない。
妖しいものは美しく、美しいものは女性である。つまり、妖しいものは女性なのである。という論法になる。
この意識が心のどこかに常にあるので、物語のキーとなる人物を、女性として書くことが多いのだろうなあと思う。
「ゆうぐれあさひ」の朝陽。
「写真小説家」のウタテ。
「スタードライバー」のマリー。
などなど。
私の書く小説は、女性の活躍が鍵だ。魅力的な女性登場人物を登場させられるかどうかで、物語の精度が変わってくる。
書けない、眠い、と揃ってしまったところで、午睡をとってしまおうかどうか悩み、体を動かして眠気を払うことを選んで、家の周りをぐるぐると歩き回り、体が温まったところで家の中のサイクリングマシンに乗って、アニメを見ながらひたすら自転車を漕いでいた。
少佐が亡くなってしまったからというわけではないが、サイクリングマシンに乗るとき、「攻殻機動隊」を見る。以前は洋画を一定時間見ることにしていたのだが、ぶつ切りで見ると展開を忘れてしまうということもあって、一話約二十五分のアニメはちょうどいい。
私が書くSFはなんちゃってSFなので、どっかで見たような、ステレオタイプな設定が満載になる。「アロガント」とか、「スターウォーズ」+「ブレードランナー」? と言いたくなるほど、踏襲した内容になっている。我ながらオリジナリティがと突っ込みたくはなる。
学生の頃から理系科目は嫌いだったので、そっち方面の知識が壊滅的である。だから私の小説で、この世の法則を無視したような事象が発生したならば、それは私の小説の中では起こりうるべき事象なのだと、無理にでも言い聞かせて生温かく見守っていただければ。
知識を想像力で補って書いているのだが、それをするのが恐いのがSFだ。知識がなければ間違ったことをそうと気づかず書くことがあるし、SF愛好家の方々はそうしたところに目端が利くので、おいそれと迂闊なことを書けない。
だから私は本格的なSFというものにチャレンジをしていないし、これからもファンタジーの一種として「SF的」な物語を書くだろう。
だから、「攻殻機動隊」のようなよく練られた設定で、うまく出来上がっている作品を見ると、私にも書けたらなあと思ってしまう。
少佐の凛とした声が、もう記録の中にしか存在しないのだと思うと、寂しくもなるのだが、少佐なら「しっかりしなさい」ときっと叱咤してくれるだろう。バトーやトグサには長生きしてもらいたいものだ。
つい先日(一昨日か)、E・M・フォースターの「小説の諸相」が文庫化されたことはご存じだろうか。
私はこの作品を大学時代の講義で知り、一部だけは読んだことがあったのだが、全文を読んだことがなかったのだが、今回晴れて文庫化されたということで、近隣市の書店をはしごしても見つからなかったので、Amazonに頼って取り寄せてしまった。
私の学生時代は十数年前の彼方にあるので、文庫化されるのにそれだけの月日を要したことになる。神保町に足繁く通っては、各古書店にフォースターの全集はないかと歩き回ったのはいい思い出だ。
しばらく古書店街にも足を運んでいない。行けば必ずランチは「ろしあ亭」のボルシチか「ボンディ」のカレーだったのだけれど、「ろしあ亭」は移転してしまったので、寂しい限りだ。
ホフマンスタールの全集全巻セットを見つけたときは、欣喜雀躍して喜んだ。あの全集が入手できなければ、私の卒論も頓挫してしまっていただろう。
また行きたい行きたいと思っていて、何年も経ってしまった。新国立劇場のオペラも、シーズンごとにラインナップをチェックはするのだけれど、観劇に行かなくなってしまって久しい。
東京は近いようで遠い。
その気さえあれば電車に飛び乗って行くことはできるのだろうけれど、自分の状況と懐具合とで、なかなかそういうわけにもいかない。
なので、創作大賞の授賞式にはぜひ出たいと、邪な動機から思っている。
また脱線したが、この作品の文庫化を実現してくれた、中央公論社には感謝の言葉しかない。
世に小説の創作について書かれた本は数多くある。現役の作家の方が創作論を著しているものもあるし、私もそうしたものに目を通したことはある。けれど、自分の血肉になったかというと、微妙なところ、というのが正直な感想。
私が創作の腕が上がったな、と感じられたのは、noteを始めてから。多分概算で5,000枚近くは書いている。その間も色々な小説を読んで、インプットも怠りなくやった。
やはり人間何事も、反復練習に勝るものはないと思った。
そんな私なので、創作の腕の向上をフォースターにすがるのではなく、読み物として楽しんで読むために購入した。
今はいしいしんじと吉田篤弘の新刊を抱えているので、それと同時並行しながら、ゆるゆると楽しみたいと思っているのだが、長編の執筆とnoteの記事の執筆で時間を使い切ってしまうので、読めるのはいつになるやら。
というわけで、なんだろう。とりとめもないことを、切れ目なく思いつくままに語っただけになってしまったのだが、今日の報告のようなものとして。