誰が為の世界で希う-1

 魔法の使える人間――魔術師が存在すると公に認められている現代日本。
 大学二年生の清水亮は自分が魔術師であることを知り、二人の魔術師に導かれながら魔法を学んでいくことになる。才能も魔力も十分にあったためか、清水亮はすぐに魔法を使いこなせるようになるが、そんな彼を利用しようとする人物も現れて――?
 魔法の師である二人や旧友たち、さらには魔法で人々を幸せにすることを理念に掲げる組織「魔術師協会」の職員たちまで。様々な人に支えられながら、清水亮は魔法を自分のものにできるのか。そして、周囲の人々はどうなっていくのか。
 東池袋を舞台としたヒューマンファンタジー、ここに開幕。


ため世界せかいこいねが


『黄色』をまとった人が歩いている、と亮は思った。
 けれど、細い釣り目をこすって再び前を見たときにはもう、人混みに紛れてしまったのか見当たらず、一つため息を落とす。あの『色』が見間違いだったのかどうか、確認することは叶わない。二〇二一年四月、日差しの優しい午前のことだ。
「……また見ちまったか」
 低く落ち着きのある声が、まだ少し肌寒い空気に溶けて消えていく。
 稀に、他の人には見えない『色』を見てしまうことがある。以前医者に見てもらったが目に異常があるわけではないらしく、原因不明のままだった。どうしようもないことも、なにか害があるわけでもないことも分かってはいるけれど、もう一度小さく息をついた。
 池袋駅東口。バスから降りたばかりの亮は、鞄を肩にかけなおして私立東池袋学芸大学――東袋とうふくの池袋キャンパスへと歩を進める。暖かな春風が、さらさらとした彼の黒髪を揺らして吹きすぎていった。
 十分ほど歩けば、豊島区中央図書館の向かい、都電荒川線東池袋四丁目駅の程近くに瀟洒な校舎が姿を現す。
「何回見てもきれいで趣のある場所だよなぁ、ここ」
 大学二年生である亮がこの東池袋にあるキャンパスに通いはじめたのは、この春のこと。昨年度は新座にある校舎に通い続けていたため、この辺りの土地勘もなければ新たなキャンパスに慣れてもいない。壮麗な正門を抜け、赤茶けたレンガとその上に設置された黒い柵、そしてそこに絡みつく深緑の蔦で囲われた大学構内に足を踏み入れると、敷地はさほど広くないはずなのに目がくらみそうになる。
「建物も小洒落てるしさ、綺麗なのはいいんだけど――」
「けど、迷いそう?」
 突如背後から聞こえてきた軽やかで優しい声に、亮は一瞬眉をぴくりと上げる。けれど振り返って声の主を確認した途端、気の抜けた表情で「なんだ、お前かよ」と苦笑いを浮かべた。
「え? 高校時代からの友達が道に迷って途方に暮れてそうだったから、助けようと思って声をかけたのに反応がそれ?」
「どう考えても俺のこと驚かそうと思ってただろ、犬童」
「っはは! よく分かったねぇ。さっすが清水」
 犬童と呼ばれた青年――犬童海弥は、垂れているのに猫を彷彿させる目を笑顔の形に歪め、ふさふさとした髪を揺らしながら声をあげて笑った。それと同時に、リング型のピアスと左耳につけられたイヤーカフが陽光を反射して銀の光を放つ。眩しそうに目を細めながら、あきれ顔で亮は「お前の考えは見え見えなんだよ」と肩をすくめる。
「それはともかく、お前、二号館ってどこだか分かるか?」
「任せとけって。清水と違ってここを拠点にしてるサークルに所属してるから、こっちのキャンパスにもだいぶ慣れてるんだよ?」
「……なんかむかつく言い方するよなぁ。犬童だって去年メインで通ってたキャンパスは新座のくせに」
 眉間にしわを寄せて海弥のことを見下ろしながらも、亮の目には慣れたことだと言いたげな穏やかな色が見えた。それを分かっているのかいないのか、海弥はすらりと背の高い亮の前に立って「ほら、こっちだよ」と歩きだす。なにも言わず、亮はその後姿を追いかけた。
「にしても、なんで二号館?」
「二限が二号館にある文学部のフロアであるから。なんとなく想像つくだろ」
「あー、なるほどね。たしかにおれも、次の授業は社会学部のフロアだな」
「犬童の学部って変わった名前だよな。それでやってることが映像編集なんだからよく分かんねえや」
「たしかに。まあ、俺の所属してるコースが映像編集に関わることをやっているっているだけで、他のコースはまた全然違う内容なんだけどさ。あ、着いたよ」
 海弥が指さした先には、たしかに『二号館』の看板の立てかけられた校舎が。一言礼を言って中に入っていこうとした亮は、なにか思いついたように海弥の肩を叩いた。
「そうだ。講義のあと一緒に昼飯食べに行かねえか? 最近あんまり会えてなかっただろ。だから久々にさ」
「いいね。じゃあ二限終わりに学食で待ち合わせっていうのはどうかな」
「分かった。じゃ、またあとで」
 軽く手を振って見慣れた後ろ姿を見送って、講義のある教室へと向かいながら。ふと、亮は首を傾げた。
「……学食って、どこだったっけ」

 休み時間の混みあう学生食堂の中、亮と海弥は特に示し合わせたわけでもないのに同じ料理を手にして、六人掛けのテーブルに向かい合って座った。
「っていうかさあ、まだ学食の位置も覚えてなかったの? さすがに『場所が分からないから迎えに来てくれ』なんてメッセージが来るとは思ってなかったよ」
「うるせえ」
 おかずを口に運びながら言う海弥にそう吐き捨てながらも、亮は「いただきます」と手を合わせて箸を持った。
「仕方ないだろ、ここに通い始めてからまだ一週間も経ってねえんだぞ」
「はいはい。したっけさ、この噂も知らない?」
「噂?」
 細い釣り目をすがめた亮に、海弥は好奇心にあふれた猫のような表情で顔を寄せ、けれど低く真剣みを帯びた声で、囁いた。
「ここ、魔術師がいるらしい」
 ぴたり、と。
 亮の動きが止まり、目が徐々に見開かれていく。口が言葉の形を探すように動き、ようやく発することのできた一言は。
「――まじで?」
「うん。こないだ先輩から聞いたんだよ。おれらの一個上で『不幸を呼ぶ少年』って呼ばれてるらしい。この話を教えてくれた先輩はその魔術師と会って話したことがあるっていうから、多分本当のことなんだと思う」
 魔術師――自らの内にある魔力を行使し、魔法を操ることのできる者。二〇二一年現在、その存在は公に認められており、彼ら彼女らはひっそりと一般人の中に紛れ込みながら暮らしているのだといわれている。――亮の持つ魔術師に関しての知識はその程度で、恐らく世間一般的な認識と大差はないだろう。
 二人とも、魔術師に出会った経験は一度もない。もしあったとしても、相手がそうだとは気づいていない。そもそも、彼ら彼女らは自らの正体を隠す傾向にあるため、このように噂になることの方が珍しいのだ。
「……ほんとにいるんだな、魔術師って」
「な。おれも初めて聞いたときびっくりしちゃったよ」
 再び箸を動かしながらも、会話は終わらない。二人の交わす言葉は、周囲の喧騒に紛れて誰の耳にも留まらない。
「一個上ってことは三年生だよな。『不幸を呼ぶ』って、なんかよくない魔法でも使うのか?」
「いや、そういうわけじゃないみたいなんだけど、なぜかみんな好きこのんで近づくことはしないって先輩は言ってたなぁ」
 それ以上のことは海弥も知らないらしく、どうしてだろうね、とでも言いたげに首を傾げてからおかずを口に運んだ。
「その話を教えてくれた先輩って、サークルの?」
「そうそう。軽音サークルで一緒にバンド組んでる先輩がいるんだけどさ、その先輩がついこの間――三月下旬くらいかなあ、春休み中に教えてくださったんだよね。次の四月からこっちのキャンパスに来るなら知っておいた方がいいよ、って」
「じゃあ、結構有名な話なんだ」
「らしいね」
 言いながら、海弥はふと、なにかに気づいたように横へと目を向けた。つられて、亮も友人の目線を追いかける。
 そこにあったのは、学食ではよく見かける光景。海弥の隣――正確に言うと一つ空席を空けた隣である――に見知らぬ人が座った。ただそれだけ。
 けれど、亮は縫い留められてしまったかのように、視線を動かすことができなくなった。
「……どうした?」
 とっくに自分の昼食へと意識を戻していた海弥の声にも、うまく反応ができない。
 どきどきと心拍数は上がり、息が浅くなっていく。なのに、胸の中は懐かしさと温かさでいっぱいだ。目の前にいるその人のことは、全く知らないはずなのに。いや、その人は黒いパーカーを着てフードを目深にかぶっているから、顔をまともに見ることもできないのに。
「清水?」
「……ごめん、なんでもない」
 名を呼ばれてようやく我に返った亮だったが、自分の斜め前に座ったその人のことが、頭からうまく離れてくれなかった。朝、バスから降りたときのことを思い出さずにはいられない。
 あのとき、一瞬見かけた『黄色』をまとった人。
 その人が自分のすぐ近くにいて、今も同じ『色』をまとっているように見える、となってしまっては。
「そう? ならいいんだけど」
「なんか、ありがとな」
 気づかわしげでありながらも深入りはしてこない海弥に、亮はほっと一息つく。そして、何事もなかったかのように昼食に箸を伸ばしながら「ところでさ」と話を切り替える。
「お前、そのイヤーカフって前からつけてたっけ? ピアスは前からあったと思うけど」
 手で海弥の左耳を指しながら言った亮に、海弥は恥ずかしげに口角を上げた。
「ああ、これ? よく分かったねぇ。最近買ったんだよ」
「へえ、いいじゃん。似合ってるよ」
 ほんのりと頰を赤らめ、幸せそうな笑みを浮かべる友人に首を傾げながらも、首を突っ込むことはせず、亮もニッと笑った。
 そんな二人を――正確には亮を、彼の向かいに座った黒いパーカーの人物が見ていた。
「……見えないなあ。気配は感じるのになんでだろう?」
 鼻にかかった、穏やかで少し高めの声が呟きを落とす。
 フードに隠されて目元は見えず表情も分かりづらいが、不健康そうに色の薄い唇がふっと弧を描くのが見える。これまた黒いズボンのポケットからスマホを取り出すと、誰かにあててメッセージを一言二言送信して、「いただきます」と昼食に手を付けた。けれど、小食なのか食べるペースはかなりのんびりとしており、結局、皿に三割ほど食事を残したまま「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
 黒いパーカーの人物と、亮や海弥が席を立つのは、ほぼ同時だった。
 なんの話題で盛り上がっているのか、ときどき笑い声を上げながら先に下膳口にたどり着いた亮と海弥は、そのまま楽しげに学食を出ていく。その背中を眺めながら黒いパーカーの人物も食器を下げて建物の外に出た。
 瞬間、強く春風が吹いてフードが外れかける。左目を隠すほどに長く伸びた金色の前髪と丸く細い垂れ目が少しだけ見えて、けれどすぐに深くフードを被りなおした。さりげなく、けれど逃げるように近くの建物の裏に隠れて、ひとつため息をつく。
「――変われないなあ、おれは」
 ひとけのない空間に、乾いた笑い声が反響して消えていく。嘲るようだったその声を聞いている者は、誰もいない。
 黒いパーカーの袖から覗く、白くしっかりとした手がらせんを描くように動かされる。
 数秒後、人影のあったはずの場所には、ほの暗い空間だけがあった。
 薄闇に目を向ける人がいるわけもなく、学生や教職員はなにも気づかずにその近くを歩いていく。人波に紛れて歩いていた一人の女性が、ふと、少し前を歩く二人組――のうち一人に目を止め、ヒールで軽やかに駆けだした。
「――海弥くん!」
 小鳥のさえずりのような声に、名を呼ばれた海弥はもちろん、隣を歩いていた亮も足を止め、振り返る。
「……知り合い?」
「まあね。……サークルの、先輩」
 頰を緩ませ、大きく彼女に向かって手を振る友人の姿に、亮は思わず目を細めた。
「お前なぁ」
 にやにやとした笑いが、声にも混ざる。気づいているのかいないのか、海弥は素知らぬふりで「どうしたんですか、先輩」と彼女を迎えた。
「たまたま見かけたから、ちょっと声をかけたくなっただけ。隣にいるのはお友達?」
「はい。ほら、前に話したと思うんですけど、高校時代から仲いいやつで」
「あっ、清水です。初めまして」
 海弥に肩を叩かれた亮は軽く頭を下げながら、目の前にいる人のことを窺い見る。細いわりには穏やかなたれ目と、白い肌に茶色の髪。華奢な手足に清楚な身なりの映える、可憐な花のような女性だ。左耳につけられた銀のイヤーカフが、花びらについた朝露のようにきらめいている。
「こちらこそ初めまして。本間風花っていいます。海弥くんから何度か話を聞いたことがあるよ。口は悪いけどいつも仲間思いの人だって」
「ちょっと先輩!」
 顔を赤くして慌てふためく海弥に、風花は軽やかな笑い声をあげた。
 二人の交わしている言葉は、どこにでもありそうな、からかい好きの先輩と天然な後輩のそれによく似ている。けれど亮はなにを思ったか、二人の様子を生暖かい目で見つめていた。
「あ、そろそろゼミ始まっちゃう。じゃあ、私はこのへんで」
 またね、とヒールを軽やかに鳴らし、心理社会学部のフロアがある六号館へと入っていく彼女を、海弥は再び大きく手を振って見送った。
「仲、いいんだな」
「――まあ、ね」
 それ以上、会話が発展することはない。ただ、亮はにやけ笑いのまま軽く海弥を小突き、海弥は頭をかきながらされるがままになっていた。
「なあ犬童、次は講義あるか?」
「ん? ないよ」
「俺、夕方からバイトなんだけどそれまで暇だからさ、ちょっと遊びに行こうぜ」
「いいね。なにする?」
「そうだなあ……」
 正門を抜け、池袋駅前へと歩いていく二人の様子を、六号館八階、心理学科のフロアから眺めている人がいた。
「柏木君」
 教室の窓際に立つ黒ずくめの人――先ほど物陰から忽然と姿を消した彼に、風花が軽やかに声をかける。
「――本間さん」
「外眺めてるなんて珍しいね。なに見てたの?」
「……や、考え事をしていただけ。それよりいいの?」
「え?」
 さも不思議そうに首を傾げる彼女に、柏木と呼ばれた青年は一言。
「分かってるでしょ? おれ――」
「分かってる」
 きっぱりとした口調だった。
 彼の周りには、風花以外の人がいない。他のゼミ生だろうか、周囲の人々は彼に、そして彼女に、奇異の目を向けて近付こうとしない。触れようとしない。
 それでも、彼も彼女も平静そのもの。
「別に、用もなく声をかけたわけじゃないからね。ゼミの研究テーマに関して相談があるんだけど」
「……はいはい。どうしたの、相談って」
 呆れたような彼の声。窓辺から一歩、離れて彼女に向かい合う。
 三限開始のチャイムが、大学内に響き渡った。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。

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第12話:誰が為の世界で希う-12|秋本そら (note.com)

第13話:誰が為の世界で希う-13|秋本そら (note.com)

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