誰が為の世界で希う-12

 梅雨入り宣言のされた日。
 蓮人は降りしきる雨の中、黒い傘をさして大学へと向かいながらスマートフォンのメッセージアプリを開き、微かに首を傾げた。
 以前はこまめにメッセージを送ってきていた亮が、ここ最近、なにも連絡をしてこない。
「……なにかあったのかなぁ」
 その疑問をそのまま打ち込んで送信してみるが、既読通知は来ない。
 少し前までは、魔法のことで分からないことや困ったことがあればすぐに一報を入れてくれたのに。そして、メッセージで返せることならそのまま応対し、出来ないことなら待ち合わせをして実際に会って、相談に乗っていたのに。
 もう一度首を傾げて、スマートフォンをしまいながら大学構内へと入っていく。
 蓮人は、気づかなかった。
 今さっき通り過ぎたばかりの交差点に、見慣れた、けれど一緒にいるとは想像もつかない二人が佇んでいたことを。
「キミの魔法がなかったら彼に気づかれていたね。危なかったよ」
 そのうちの一人――笹原が大学の方を振り返りながら呟くと、もう一人は深く息をついて、たっぷりと間を開けて口を開く。
「……通学路ですからね。当然ですよ」
 その声には、諦めたような色が滲んでいる。
 亮の声だった。
「じゃあ、視覚と聴覚の認識阻害魔法でオレたちの存在がばれないようにしようって判断は正しかったわけだ」
「自画自賛ですか」
「ちょっとくらいいいだろう? ……さて、そろそろだと思うんだけどね」
 池袋駅の方面を見やって、笹原は声を低く落とした。ジャケットのポケットから折りたたんだ紙を取り出して、器用に広げて見せる。そこには、一台の車とそのナンバープレート部分の拡大写真が印刷されていた。
「計画は前に話した通り、この車がやってきたら、キミが魔法をかける。それだけだね」
「……本当に、やるつもりなんですか」
「ああ、そうだよ。前にも言ったけど……どうしても許せないし、納得がいかなくてね」
 ひとつため息をついて、亮も池袋駅の方を眺めた。自分たちのいる交差点の、ひとつ前の信号に目的の車が足止めされているのを見つけて、もう一度呟く。
「……やるんですね」
 笹原は亮の方を振り返りもせずに頷いた。
「安心していいよ。魔術の関与については疑われないからね」
「そういう問題でもない気がするんですけど……。あと、あなたは何者なんですか」
「しがない区役所勤めの公務員さ」
 そう言って笹原が笑うのと、ひとつ前の信号が青に変わるのは同時だった。
 視界の悪い中、他の車よりもスピードを出して走る目的の車。タイミングを見計らって、亮はひとつ指を鳴らした。
 二つの『赤い』線が、雨水のはねる路面と車の中へと突き抜けていく。
 次の瞬間。
 亮の目がこれ以上ないほどに見開かれる。
 衝撃音と叫び声が響き渡る。
 魔法をかけた車は、交差点近くのガードレールの方へと突っ込んでいったのだ。

 昼下がりの日出町第二公園交差点で、事故が起こった。自動車が近くの植木に突っ込んでしまうという、自損事故だった。運転していた高齢の男性は、病院に搬送されたが、奇跡的に無事だった。
 見かけだけでは、そういう出来事だった。

「――!」
 声にならない叫び声が、亮の喉から迸った。
 手が勝手に事故車両の方へと伸び、足が道を渡って現場へと向かおうとする。
 それを阻んだのは、笹原だった。
「自業自得だよ」
「違う、やっぱりこんなことがあっていいはずがない!」
 喉から精いっぱいの声を絞り出す。急に大声を出したせいか言葉の後半は声が枯れかけていたが、それでもはっきり、亮は叫んだ。
 声に呼応するかのように、風が吹く。タイミング悪く雨脚が強まり、二人の足元はびしょぬれになる。
「あなたはたしかにあの運転手さんを恨んでいるのかもしれない。それでも、間違っているんですよ、こんなこと」
 血を吐くようだったその言葉と同時に、『赤』が亮を取り巻いた。『赤』は風に吹かれて車のもとへとたどり着き、中に乗っている人を包み込むようにした。
 なにかを、笹原は言おうとして、やめた。言葉を飲みこんで、別のことを口にする。
「まさか、彼を助けようとなんてしてないよね?」
 ふらり、道を渡って、交差点の名前にもなっている第二公園の方へと笹原は歩きだす。
「……」
 亮は、いつの間にか足元にあった二つの残滓に手をかざす。ひとつは、二つの光となって車を射抜いた魔法――車をスリップさせ、認識誤認でアクセルとブレーキを踏み間違えさせた。もうひとつは、治癒魔法――車の中で大怪我をしたであろう運転手を助けた。
 後者の魔法は、使ったという意識がない。また、魔法が暴走した。
 ひとつため息をついて、笹原の後を追いかける。
「もう一度言うけど、自業自得なんだよ」
 交差点の程近くにある第二公園内、慰霊碑に腰を預けて事故車両を眺めていた笹原は、傘の中、人目につかぬように煙草を一口だけ吸った。すぐに投げ捨てられた吸殻は慰霊碑に供された花束に落ちて、包みをじわじわと溶かしていく。
「あの人はひき逃げ事件を起こしたにもかかわらず、なぜか軽い罪にしか問われなかった。……そのぶん、罰が当たったんだよ。オレの家族を轢いて死なせたんだ。当然だよ」
「罰なんかじゃない」
 近くで屈みこみ、傘を差しながら慰霊碑に手を合わせた亮が呟く。
「あの事故を起こしたのは俺ですよ。そして、事故を起こしたがったのはあなただ。……そうでしょう? 笹原さん」
 低く、唸るような声だった。
「たしかに、キミの言う通りだよ。でも、誰も彼の罪を罰しないなんておかしな話だと思わないかい。だから代わりに断罪した。それのどこが悪い?」
「あなたが抱いたその感情と同じものを、他の人に味わわせるべきじゃない」
「――人は、みんなが幸福になることなんてできやしない。だからオレはせめて、みんなが不幸になることで平等にしたいのさ。幸せな奴に、不幸をプレゼントすることでさ」
 笹原は、悪びれもせずに暗く笑う。いつの間にやら手にしていたスマートフォンを見て、通知を確認するなり「おっと」と軽い声をあげた。
「オレはそろそろ職場の休憩時間が終わるからもう行くよ。また、連絡するからさ」
 友達と遊ぶ約束をする調子でそう言って、笹原は区役所の方へと歩いていく。
「――『魔法は、魔力と想像力があり、ひとにできることの範疇を超えない限り、望むことを為すことができる。ただし、』」
 ふらりと立ち上がった亮は、思い出したように、どこか呆然と呟く。
「『ただし、魔法で人を傷つけてはならない』」
 声は水たまりの中へと落ちて、小さくしぶきを上げた。
「そうだ……魔法は、人を傷つけるものじゃない。一番大事なことを、俺……」
 ネックレスを、握りしめた。しばらくそのまま立ち尽くしていたが、第二公園のすぐ隣にある東池袋学芸大学の方へと歩を進めた。
 傘のせいで顔は見えない。
 胸で鈍く銀の光を放つネックレスは、透明な滴で濡れていた。

「さて、これはどうしたもんかな……」
 人には聞こえない声で、誰にも見えない人影が、亮の後ろ姿を見送りながら呟く。
「え、そのまま報告すればいいんじゃないですか。清水亮が自分の意思でなく事故を魔法で引き起こして、けれど清水亮自身が被害者に対して治癒魔法をすぐに使ったため死傷者は出ませんでした、って。僕ならそうしますよ」
「そうじゃないよ、紺野君」
 魔術師協会の二人が、事故現場近くに佇んでいた。遠夜の差す一つの大きなビニール傘に二人で入って、古夜の認識阻害魔法で姿と声を消している。
「問題はね、魔法で引き起こされた事件に関しては警察も司法も手を出せないってことなんだよ。魔法の介入があったことを証明することは、いまのところできない。写真や映像を撮ったところで魔力は映らないからね。魔術師が起こした事件に気付けるのは魔術師だけだ。実際、事件が起こった瞬間を見たけれど――おれがなにかが起こるかもしれないと魔法で予知して、ここに来て、止めようとして間に合わなかったけれど、紺野君だって最初は普通に事故だと思ったでしょう?」
「まあ……そうですね。古夜さんが言わなければ、気付かなかったと思いますよ。ここに清水亮がいたことにだって、古夜さんが彼の魔法を解くまで分からなかったんですから」
 言いながら、遠夜は古夜の顔を覗き込むんで息を呑む。
 古夜は、いつになく真剣だった。
「でも、逆に言ってしまうと魔術師が起こした事件をでっちあげることも容易なんだよ。だって、一般人には魔力の認知ができないんだから。もし、さっきおれが事件現場を見て『青い魔力を見た』と嘘をついたとしたら……紺野君はその真偽を見分ける方法がないだろう? だから、捜査側に魔術師が入るってこともない。魔法による事件が罪に問われないのは、つまりそういうことだよ。
 魔術師の抑止力にならなきゃいけないのは、おれたち魔術師協会だ」
 そう言葉を連ねる古夜の表情は、感情を忘れたかのように硬い。
「おれたちが、事件を起こした魔術師になにか枷を課さなければならない。大体の場合は使用できる魔法に制限をかけたり、魔力を全力で使えなくしたり……場合によっては、封印したりする。じゃあ、今回ならどのくらいがいいだろう? 人を殺せるくらいの魔法を使ったのだから魔力を封印するべきか、それともすぐに被害者を救ったことを加味して使える魔法に制限をかけるくらいがいいのか……考えなくちゃいけない。現場にいた、事件を見ていた、おれたちが」
 その言葉の端が震えていることに気付いて、遠夜は古夜の目をじっと見つめる。
 古夜の目の奥には、いつもと変わらぬ――いや、いつも以上の、優しい色が滲んでいた。口元は、その目は少しも笑っていないのに、ぴくりとも動かないのに。
 そう気付いた途端、遠夜の口が自然と言葉を紡いでいた。
「もういいですよ、古夜さん。そんなに一生懸命に自分に言い聞かせなくても」
 ぴたり、と。
 古夜の声が止まった。
「魔法に長けていて経験豊富な古夜さんのことなのでもうどんな枷を課すべきか思い浮かんでいて、でも優しい古夜さんのことなのでその枷が本当に彼のしたこと相応なのか――優しさが故に甘くしていないか、逆に優しさを消そうとするあまり厳しくしていないか、不安なんでしょう。そうじゃないですか?」
 その言葉に、古夜は一つ大きな息を吐く。
 ゆっくりと隣に立つ同僚のことを見上げたそのとき、ぐしゃりと硬い表情が崩れ落ち、その奥からは眉を下げて自信なさげに笑う姿が現れた。
「……よく分かったね」
「それならそうと言ってくれればいいのに。なんのために魔術師と一般人がペアで行動してると思ってるんですか。魔術師と一般人、どちらかのみの視点に偏らないようにするためですよね。独断で判断を下さないようにするためですよね。……僕も事件現場にいて実際に目撃した一人なんです。一緒に、考えさせてください」
 真っ直ぐに目を見つめられて、ふ、と古夜は微笑んだ。
「ありがとうね、紺野君。――じゃあ、いったん事務所に戻ろうか。見回りは他の人に引き継いで、今回の事件についての報告書を書いて、彼への対応をどうするか、決めよう」
 遠夜がほっとしたようにひとつ息をついたのを確認して、一歩、また一歩と足を踏み出す。後ろの方から同僚が慌てた様子でついてくるのを確認して、古夜は小さく呪語を呟く。
 土砂降りの雨で視界の悪い中、ひとつのビニール傘に入った男性二人組が蜃気楼のようにその場に現れた――古夜が認識阻害の魔法を解いたのを見ていた者は、誰もいなかった。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】