誰が為の世界で希う-13

 その頃、大学構内のとある空き教室で、海弥はドラマ撮影の準備をしていた。鉛筆でこつこつとこめかみを叩きながらも絵コンテを描き、コマの横に場面のイメージを書き込んでいく。
「……今までにも講義でやってきてはいるんだけど……なんか今回は力が入っちゃうなぁ」
 今回のドラマは、講義内での映像制作とは違って、近隣住民も見に来る行事で発表されるもの。今までとは比べ物にならないほど多くの人が目にすることになる。
 うーん、と唸り声をひとつ。腕を組んで、机の上に広げた資料たちを半ば睨むようにしながら考え込んでいたその時。
 かちゃり、と。
 無音の教室に、扉の開く音が投げ込まれた。
 反射的にはっと顔を上げた海弥は、入ってきた人物を認めて「なぁんだ」と息をつく。
「早いな、清水。読み合わせの時間まではまだだいぶあるよ?」
 亮だった。
 というのもこのあと、この教室でドラマの出演者を集め、台本の読み合わせをすることになっていたのだ。亮がこの教室へとやってくるのもおかしなことではない。
 集合時間まではあと一時間以上余裕があるということを除けば、だが。
 教室に足を踏み入れた亮も、先客がいるとは思っていなかったのか肩をびくりと震わせた。けれどすぐに笑顔を浮かべて、驚いたような声をあげる。
「――お前こそ。もう来てたんだな」
「まあ、おれは招集かけた側だしさ。いろいろやることもあるし、早めに来てたんだよね」
 鉛筆で台本たちを指し示しながらそう言った海弥だったが、ふいに眉をハの字にして、すぐそばまで歩み寄ってきた亮を見上げた。
「……あのさ」
「ん?」
「……なんか、あった?」
 不意を突かれたように、亮はくっと息をのむ。
「な、なんだよ、急に……。なんも、ないけど」
「嘘だね。部屋に入ってきたときからずっと、お前の声震えてるもん。それでなにもないとか言われても信じられないね」
「……」
 沈黙が、部屋を満たす。
 亮の胸元で光るペンダントから、水滴がしたたり落ちた。
「……事故」
「えっ?」
「事故を……目の前で見たんだ」
 言いながら亮は窓際へとゆっくり歩を進めて、その表情を見せようとしない。
 亮の後ろ姿を追いかけるように、海弥の目線が動いた。
「車が木に突っ込んでいったんだよ。自損事故、なのかな。ガードレールにぶつかって、車が目の前でひしゃげて……」
 海弥が音ひとつ鳴らさずに立ち上がり、窓際に立つ亮に近づいていく。
「……目の前で事故を見るなんて初めてで。俺……」
 窓には、顔をゆがませてどこかここではない場所を見ている亮がうつっていた。
 その隣に海弥は立って、亮の肩にそっと手を乗せる。
「……しんどかったな、それは」
 ふい、と亮はそっぽを向いて、意地でも海弥に顔向けしようとしない。けれど、窓ガラスに映った横顔は、いまにも崩れ落ちそうだった。
「ありがとな、聞かせてくれて。無理だけはすんなよ。……おれ、作業に戻るからさ。なんかあったら声かけてよ」
 亮の耳に染み込ませるように声をかけて、海弥は元いた席へと戻る。椅子に座り、再び台本や絵コンテと向き合いはじめたところで、ごつん、と鈍い音がした。
 振り返ると、亮は胸元のネックレスを握りしめて、額を窓に押し付けている。
 目を伏せてなにか逡巡している様子だったが、ひとつ、深呼吸して指を鳴らす。
 その音がなにを意味しているのか、海弥には分からなかった。

 数時間後。
「やっぱりお前の演技は上手いんだって前に言っただろ?」
「恥ずかしいからやめろ! 俺はそんなに上手いなんて思ってねえんだよ」
 読み合わせを終えた亮と海弥は、一緒に帰路についていた。目を細めて終始口角を上げている海弥に反して、亮は不満げに口を捻じ曲げていた。
「私も清水君の読み、とてもよかったと思うんだけどなあ」
「本間先輩までやめてくださいよ、もう……」
 海弥の後ろをぶらぶらと歩いていた風花にまでそう言われ、亮は参ったように片手で顔を隠した。小顔なのと手が大きく指が長いことが相まって、亮の表情はほとんどが見えなくなってしまったが、指の隙間からほんのりと赤くなった頰が見えた。
「だって本当によかったんだもん。亮くんが一言台詞を読んだだけでみんな上手さにびっくりして続きを読むことすら忘れちゃったこともあったでしょう? たぶんあの場にいた全員が亮くんの演技を上手いって思ってるよ」
「もういいです……分かりました、分かりましたからやめてください……」
「清水、耳まで赤くなってるじゃん」
「うるせえ、誰のせいだと思ってるんだ!」
 傘で顔を隠すようにしながら俯いた亮に、海弥が面白半分で背を叩く。眉を吊り上げて顔を上げた亮は、かみつくように大声を上げた。
「本当に仲がいいんだから。……あ」
「えっ?」
「どうしたんですか?」
 不意に風花が立ち止まった気配を感じ、亮と海弥も足を止める。
「ここ……今日、ここで事故があったらしいね」
 第二公園前の交差点。ひしゃげたガードレールを指さして、風花が眉を下げた。
「まさか……それって」
「この雨が原因でスリップしたのと、ブレーキの踏み間違いが原因で起こったんじゃないかっていわれてる自損事故。運転してた人は、奇跡的になんともなくて無事だったって、ニュースで見たよ」
 表情を青ざめさせた海弥には気づかず、風花は痛ましそうに、けれど淡々と口にする。
 ごとり、と。
 傘を取り落とす音が聞こえて、海弥は隣を振り返る。
「――清水?」
 雨に打たれながら、頰に伝う水滴をそのままに、呆然と立ち尽くしていた。
「……行こう」
 身動きが取れずにいる亮を引きずって、海弥は歩きだした。風花もなにかを察したのか、傘を拾い上げて亮にさしかける。
「ねえ海弥、清水君って、まさか」
「そのまさかだよ。……こいつ、事故が起きたとき現場にいたらしいんだ」
 海弥は読み合わせ前のことを手短に話す。それを聞いた風花は、ぎゅっと唇をかみしめた。
「清水、大丈夫?」
 なにも言わず、視点の定まらない亮に海弥が言葉をかけ続けるが、その声は喉で詰まったかのようにかすれている。どうしよう、と呟きながら歩いていく、その歩調が速くなっていくのを見かねた風花は、駆け足で海弥の後を追いかけた。
「海弥。向かいの道路の、東池袋一丁目のバス停近くに喫茶店があるでしょ? いったんそこで休もう。清水君のことが心配だし、海弥までパニックになりかけてるよ。困っている人がいると一緒に慌てちゃうの、海弥のいいところであり悪いところだからね」
「分かってるんだけどさぁ、どうしてもこう、不安になっちゃうじゃん」
「気持ちは分かるけど、とりあえず一回深呼吸してみたら? 少しは落ち着くかもよ」
 ちょうど信号に足止めされて、海弥は言われた通りに深く息を吸って、吐き出した。けれど、再び歩き出したその足取りは早く、思わず風花は小さくため息をひとつ。
 そのまま喫茶店に到着した三人は、店内へと入り、隅の方にある四人掛けの席を取った。一番奥に亮を座らせながら隣に海弥が腰かけるのを見て、その向かいに荷物を置いた風花は財布を取り出しながら口元に笑みを浮かべた。けれど、目は真剣な色を宿している。
「私、飲み物買ってくるから、海弥は清水君のこと、ちゃんと見ててね。なに飲みたい?」
「おれは……アイスコーヒー。亮はアイスココア――いや、濡れて寒いだろうから、ホットミルクで」
「アイスコーヒーとホットミルクね。ちょっと待ってて」
 快く答えた風花が三人分の飲み物を買い、席に戻ったときには、海弥も亮も様子が落ち着いてきていたようだった。海弥は鞄からタオルを取りだして亮に手渡すなり「風邪ひかないようにちゃんと拭けよ」と声をかけていたし、亮もそれを受け取って「ありがと」と力なく笑っていた。
「……ごめんな」
「全然。それに、ここに喫茶店で一休みしようって言ったのは先輩だし」
「そっか。――ありがとうございます、本間先輩」
「いいのいいの。それよりほら、飲み物買ってきたよ。あと……差し支えなければ、清水君に話を聞きたいんだけど、いい?」
 それぞれが自分の飲み物を取っている中、亮も迷いなくホットミルクを手にして風花に向かって頷いてみせた。
「はい。……俺もちょっと、いろいろ、よく分からなくて。だから、話を聞いてもらいたいんです」
 大きな手で温かなマグカップを包み込むようにしながら、亮はミルクの白い水面を眺めるように視線を下げ、眉根を寄せて訥々と話しだす。
「……たしかに俺、あそこで事故を見たんですよ。事故を見た、っていう事実だけは俺の中にあるんです。でも……具体的にどんなものだったのか、覚えていなくて」
 風花が、はっと息をのむ。海弥は目を見開いて「どういうこと、それ」と呟いた。
「そのまんまだよ。あの交差点で事故を見た、って記憶はある。だけど詳細は穴が開いたみたいに思い出せなくて、次の記憶は教室で海弥と会ったときだった。……でも、なにも覚えてないはずなのに、実際の事故現場を見たとき……急に、俺、苦しくなって」
 ぎゅっと亮が目を閉じて、唇をかむ。
「なんでだろうな。胸が槍でも刺されたみたいに痛くて、心が粉々になっていくような感じがして。なんだろう……怖いのと苦しいのと悲しいのとがごちゃ混ぜになってうまく息ができないし、勝手に涙は流れるし、なんも考えられないし、もう、わけわかんなくて。それで……気づいたら、ここにいた」
「うーん……じゃあ、精神的なショックによる記憶の封じ込め、ってことかな。だけど、封じているだけで記憶自体はあるから、現場を見たとき混乱に陥った、とか……?」
 風花は首をひねって考え込む。「心理学科所属とはいえ、私だってなんでも分かるってわけじゃないからなぁ……」
 海弥も、どこかすっきりしないような顔で、けれど頷きながら言葉を続ける。
「教室でふたりっきりになったとき……壊れるんじゃないかって不安になるくらいに泣きそうな顔してたからな。すっげえ苦しそうで、なんというか……痛々しく見えたんだよ。だから、事故のことを忘れたいって思うのも、無理はないと思う」
 ――おれと教室でふたりきりだったとき、お前はまだ事故のことを覚えていたんじゃないかって気がするけどな。
 ――亮はいつ、事故のことを忘れようと思ったの?
 ――事故直後でないなら、どうして時間差で記憶を封じることにしたの?
 海弥の中に浮かんだそんな疑問は、結局口にされなかった。訊いたところで、きっと亮にも答えは分からない。
「そう……か」
 亮の声が、喫茶店の喧騒の中に溶けて消えていく。くるくると意味もなくかき混ぜたホットミルクと一緒に、風花と海弥の言葉を飲みこんだ。
「……そうなのかも、しれない」
 にこり、と。
 亮は眉を下げながらも、笑みを浮かべた。
「先輩、ありがとうございます。……少しは、気が楽になりました。海弥も、ありがとな」
 海弥と風花はちらりと目を合わせ、ふっと頰を緩める。
「気にすんなよ。なんかあったらいつでも聞くからな」
「私も、役に立てたなら嬉しいな。一応、しばらくはあの交差点を避けて大学に行った方がいいかもね。またさっきと同じようなことになるかもしれない」
「そうですね。そうします」
 こうして話を終え、三人の飲み物がなくなり、退店したとき。
 降り続いていた雨はやんでいたが、遠くから雷の音が地鳴りのように響いていた。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】