誰が為の世界で希う-25

 亮と海弥が涼しい室内で談笑している頃、蓮人は区立中央図書館を出て大学へと行こうとしているところだった。腕には今しがた図書館で借りた、心理学や魔法に関する様々な本を数冊抱えている。フードで隠れて見えづらいが何か考え込んでいる様子で、けれどその割には駆け足で横断歩道の方へと歩を進め、やがて大学の校門前にある信号を確認して、道を渡り始める。
 しかし、次の瞬間。
「――っ!」
 足首からぐきりと嫌な音がして、蓮人はバランスを崩し、抱えていた本を車道に撒き散らして、その場に頽れた。
 声が、出ない。
 苦痛を訴える足に鞭を打って立ち上がろうとする――が。
 立てない。先ほど聞いた音は、思い切り足首をひねり捻挫をしたときのものだったのだ。立とうとすれば、容赦なく切り裂けそうなほどの痛みが襲い掛かってきて、身動き一つとれない。
 一ミリも動けていないのに息が切れる。暑さのせいではない、嫌な汗がにじみだす。歩行者用信号は、間もなく点滅をはじめる。焦りに身を任せるようにあたりを見回しても、なぜか助け起こしてくれるような人などいない。
 ――とことん、運が悪い。
 魔法を使おうとして腕を持ち上げても、ずきずきと痛む足に気を取られ、上手く集中できない。呪文を唱えようと思うのに、真っ白になってしまった頭からは肝心の呪語が出てこない。目の前の信号は、赤く光を放つ。
 ――なにも、できない。
「柏木先輩!」
 瞬間、遠くから耳に入った、空気を切り裂くような叫び声。聞き覚えのある、声。
 反射的に顔を上げると、こちらに駆け寄ってくる亮の姿があった。けれど、けれど、亮は『赤』の光を纏っていなくて――ネックレスをしていなくて。
 蓮人の脳裏に、自分が予知した未来が蘇る。亮が、魔術師であることを捨ててしまった、未来が。
「……はは、」
 思った以上に乾いた声がこぼれ落ちた。けれど、それに驚くほどの余裕は、残っていない。
「本当に、おれは、なんにも、できないな」
 遠くから、車がこちらに向かってくる音が聞こえるような気がする。
「亮くんの、こと……傷つけて、ばっかりで」
 自嘲めいたその言葉は、砕けてアスファルトへと落ちて、さらさらと消えていった。

「ちょっとわりい!」
 目の前にいた海弥に説明もせず、亮はすぐ近くにある扉から外へと飛び出した。視界の端で海弥が驚いたようにこちらを見ていた、気がしたが、そんなことはどうでもいい。車道で頽れたまま身動き一つしない蓮人のことと比べたら。
 このままでは、蓮人が危ない。
「柏木先輩!」
 ポケットの中のネックレスを手に取って、身につけようとしながら叫ぶ。蓮人はその声に一瞬顔を上げたが、すぐに俯いてしまった。
 遠くから大きな車が近づいてくるのが、見えた。運転手は蓮人に気付いているのかいないのか、スピードを緩める様子はない。蓮人は、その場から動かない。
「……ああ、くそっ」
 走りながらだと、ネックレスがうまくつけられない。けれど、手に持つだけではネックレスは効力を発してはくれない。まだ、蓮人のいる場所までは少し距離がある。
 そう気づいた瞬間、亮は唇をかみしめた。胸の内から、後悔が、自責の念が噴水のようにあふれ出す。
 ネックレスをしていればよかった。魔術師であることをいったん休もうなんて、そんな事を思わなければよかった。いざ魔法を使いたいときに使えないのでは、魔術師であっても意味がない。
 少しでも早く走るために、ネックレスを左手だけで握りしめて、大きく腕を振った。まだ届かないと分かっていて、蓮人に向かって、右手を、伸ばしていた。目の前の大切な人を失いたくない、ただその一心で。
 けれど、車は容赦なく蓮人の方へと向かっている。速度は一切変わっていないのに、世界が突然、ゆっくりと動き出す。
 ――間に合わない。
「柏木先輩っ!」
 思わず叫んだ、その瞬間。

 胸の奥からなにかがあふれ出して、自分の中で緩やかに渦を巻き、燃え上がるように熱を持つ。力の奔流は指の先、足の先までにも行き届く。
 この感覚を、亮はたしかに知っている。
 頭が理解するよりも早く、指の先まで力がみなぎったその瞬間、亮の右手が動いていた。

 亮の声が再び聞こえて顔を上げた蓮人は、はっと息をのむ。
 亮の左手に握られたネックレスが青く光って霧散していき、それと引き換えになったかのように亮のことを『赤』が力強く包み込む。
 黒い髪がメッシュをいれたかのように赤く染まったと思った、そのとき。
 指を鳴らす音が、亮が魔法を使う合図の音が、蓮人の鼓膜を揺らした。

 誰もいない車道を、車が走り抜けていく。
 亮の目の前には、足をくじいて動けなくなったはずの蓮人が、呆けた表情で座り込んでいた。
「……亮くん?」
「はあ、はあ……よかった。先輩が、無事で……本当に、よかった」
 安堵のあまり力が抜けたのか、亮もその場に頽れる。その大きな手で顔を覆って、肩を震わせながら、それでも、声はほっとしたような響きを帯びている。
「ねえ、亮くん。いま……魔法で、おれのこと、助けてくれた、よね?」
 戸惑いを隠せていない蓮人の言葉に、亮は数度の頷きで返す。
「……使えたんです。ネックレス、してなかったのに。先輩のこと助けないとって、だけどこのままじゃ間に合わないって、そう思ったとき、ネックレスを着けたときみたいに、魔力がみなぎってきて。いまも、ネックレスしてないですけど、魔法が使える気がします」
 小さくひと呼吸して顔を上げると、亮は横断歩道の方に視線を向けて指を一度鳴らす。そして、しばらくなにかを眺めていたかと思うと、もう一度、今度は蓮人の怪我をした足の方を見つめて、指を鳴らした。
『赤』が蓮人の足首を温かく包みこむ。そのとき、蓮人は足から痛みが消えていくのを感じて、目を丸くして亮を見上げた。
「あのあたりの空間の記憶を読みましたけど、先輩、派手に足ひねったんですね。これで立てますか?」
 よいしょ、と腰を上げながら、亮はぶっきらぼうに問いかける。蓮人もつられたように立ち上がって、小さく頷いた。
 目の前にいる亮は、安心したようにふっと笑って、校舎の方に目をやると「友達待たせてるんで」と立ち去っていこうとする。
「――待って!」
 胸の奥からあふれ出す感情に突き動かされるように、亮の手を取った。驚いた様子ではあっても逃げようとはしない、大切な人の手を、握りしめる。
「よかった」
 目が熱くて、ぎゅっと瞼を閉じる。
 ぽつり、ぽつり、蓮人の頰に雨が降る。
「また、会いに来てくれたんだね。魔術師であることを諦めないでいてくれたんだね。きっと、魔力の封印もさっき解けたんだよね。本当に、よかった……!」
 ゆっくりと目を開けると、目の前はぼやけてしまってよく見えない。それでも、亮はそこにいる。いてくれている。
「ありがとう。おれのこと、助けてくれて」
 自然と口角があがっていくのを感じる。瞬きをするたびに、滴が落ちて視界が少しずつはっきりする。
「あの、先輩……」
 ようやく晴れた視界で亮の方を見上げると、亮は少しだけ頰をひきつらせて、一言。
「……手、痛いです」
「えっ、あ、ごめん! つい……」
 蓮人が慌てて離した手のひらは、握られ続けた亮の手は、赤くなってしまっている。けれど二人ともそれどころではないのか、気にする様子はなかった。
「いや、別にいいんですけど。……こちらこそ、本当にごめんなさい。俺、先輩に失礼なこともしたし、すごく心配も迷惑もかけちゃって。でも、俺なりに区切りをつけようって決めて、いろいろ考えて。考えている間は魔法を使うのも控えようと思って、ネックレスも外してたんです。――でも」
 蓮人のぬくもりが残る、自分の手を亮は見下ろす。手を握って、開いて、顔を上げると、蓮人の方をまっすぐに見て。
「俺、先輩の言う通り、魔力の封印が解けたんだと思います」
 体にみなぎる温かな力を感じながら――古夜にネックレスの魔法を書きかえられる前のように自分の全力を出せることを感じ取りながら、亮は言葉を選ぶ。
「なんで封印が解けたのかなんて分かりません。でも、俺は魔術師であることを選んだんです。もう、いろんなものから、逃げないって。だから……」
 上手く言葉にならないのか、意味のない身振り手ぶりを交えて、どこかもどかしそうに頭をかいて、亮は「とにかく、」と再び口を開く。
「今までのこととか、これからどうしたいのかとか、先輩や神田さんに話そうと思ってます。だから、その……今度、日を改めて、三人で会いませんか」
 真剣な口調に、蓮人の表情にも緊張が走った。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】