誰が為の世界で希う-22

 どんな出来事が起きようとも、時間は待ってくれない。日曜日は終わり、また、素知らぬ顔で平日がやってくる。
「柏木君」
 ゼミの教室から大学構内を眺めていた蓮人は、聞き慣れた声に振り返った。
「あ……本間さん」
「この間の土日で、なんかあった?」
 風花の声は、腫れ物に触れているかのようにぎこちない。
「どうして?」
「なんか普段よりも疲れてそうだし、それに……」
 いったんそこで言葉を切り、少し考えていた風花だったが、思い切ったかのように口を開く。
「探してるんでしょ、清水君のこと」
「……うん」
「清水君、少し大学休みたいって」
「えっ」
 風花の言葉に衝撃を受けたのか、蓮人は思わず声をこぼしていた。数歩ふらついて、けれどすぐに踏ん張って、倒れまいと足に力を込める。
「なんで、知ってるの?」
「後輩から聞いたんだ。ほら、前に話したでしょ? 清水君と高校時代から付き合いのある友達が、サークルの後輩にいるって。その子に教えてもらったんだよ。清水君、いろいろあってなにも手につかなそうだから、何日か休みたいって連絡してきたらしいんだよね。その話を聞いてて、そのうえ柏木君も元気なさそうだから、もしかしたらなにかあったのかなあって思ってさ。もちろん、話したくないんなら言わなくてもいいんだけど」
 言いながら、被ったフードで隠されて見えづらい蓮人の表情をうかがうように、風花は上目遣いになる。視線から逃げるように窓の方を向いた。
「日曜日、亮くんと会ったんだ」
 窓ガラスには幽霊のようにうっすらと、風花の姿が浮かんでいる。なにかを発見した子どものような興味津々な表情で、問いかけてくる。
「どうだった?」
 窓の向こうにいる風花と目が合ったような気がして、蓮人は地上を見下ろした。
 探し人は大学に来ていないと分かっているはずなのに、大学構内を歩く人影を追いかけてしまう。似ている後ろ姿を見つけては、違う人だと心の中で首を振る。
「……いろいろ、あったよ」
 口からこぼれ落ちたのは一体、なんのため息なのか、よく分からない。
「おれもあんまり話したいとは思えないし、亮くんだって知られたくないことだと思うから、詳しいことは言わないよ。でも……」
 フードの中で、蓮人はゆっくりと、瞼を閉じる。
 誰も見えない暗闇の中で紡いだ言葉は、誰にあてたものでもない。
「……そうだね。おれも、まだ、整理しきれていないところがあるんだ。亮くんは多分、おれ以上に混乱して、迷って、悩んでいるんだと思う」
 うん。
 自分の言葉に、小さく頷いた。
「そっか」
 風花の声が鈴の音のように軽やかに耳に飛び込んできて、蓮人ははっと目を開く。
 窓ガラスに映る風花は、柔らかな表情を浮かべていた。
「ありがとう、話してくれて」
「たいしたこと、言ってないけどね」
 言いながら、目線を上げた拍子にフードが外れる。
「……はは、」
 乾いた笑い声が、口をついて出る。
 目をすがめて、口元をゆがめて、それでも蓮人は、呆けたように笑う。
 見上げた空は文句ひとつつけようのない快晴だった。

 夕刻。
 大学の程近く、日出町公園に、巷一はいた。
 一人ではない。中年の男性がベンチに腰かけてなにやら新聞を広げ読みふけっているし、白髪交じりの高齢男性は花壇の縁に座り込んで昼間だというのに缶ビールを飲んでいる。公園入口の車止めにはパソコンのキーボードを叩いている会社員がおり、幼子たちの遊ぶ姿を見守っている母親たちもいる。
 主な道路に面していなくとも、ビルに囲まれて日当たりが悪い場所であろうとも。この公園には少なからず人が訪れている。
 蓮人と亮は、知らないことだ。
 小さくため息をついたのち、巷一はひとつ、深呼吸。
 瞬間、魔術師にしか見えない青い光が公園敷地内の地面を覆いつくし、公園内にいた人々は次々に敷地外へと出ていった。ある者は電話で呼び出され、ある者はなにか用事を思い出し、ある者は近くを通りすがった知人に声をかけられ……。
 地を覆う光が消えたとき、公園にいるのは巷一、ただ一人となっていた。
「あんまり人払いの魔法は好きじゃないんだけどなぁ」
 言いながら、腕時計を首輪に変え、素早く身につける。そしてひとつ手を叩くと、巷一の立っているところから、波のように青い光の粉が広がっていく。公園の方へと近づこうとしていた人々は、気が変わったかのように回れ右をして公園から離れていった。
 人払いと人除けの魔法。好きではなくとも、何度もお世話になってきた魔法だ。弟子たちと会って話をするとき、魔法の練習をするとき、ほかにも。こうして魔法をかけることで、魔術師や魔法の話を、人目を気にせずにすることができていた。
 当たり前だと思っていることには疑問を抱かないのか、蓮人や亮が人払いと人除けをしていることに気づいたためしがない。つい先日まで、とてつもなく使役者に負担がかかるうえに莫大な魔力を消費する魔法を、魔力量の少ない巷一が使えることに、誰も疑問を抱いていなかったのと同じように。
「当然のことを疑う。それが、様々な発見や成長のきっかけになる。……疑ってばかりでは壊れてしまうし、おれみたいに知りたくないことまで知ってしまうことだってあるんだけどね」
 巷一の背後に、足音がひとつ。
「――そうじゃありませんか? 魔力を認知して使役できる一般人の笹原さん」
 足音が、止まった。
 振り返るとそこには、ジャケットを風にひらめかせて佇む笹原がいた。
「神田さんの言う通りですよ。お弟子さんから話を聞いたんですね?」
「それもありますけど、蓮人から話を聞く前から、確証こそないものの、もしかしたら、とは思っていましたよ。以前からこの辺りでは、わずかな魔力で済む魔法を使ったであろう嫌がらせが多発していましたから。ここ最近だと、この公園のブランコが壊れて、子どもが怪我をしましたね。おそらくはあなたが、この公園に残っていた、わたしたちのうち誰かの残滓を使ってブランコを破壊したんだと思うんですけど、どうでしょう。当たっていますかね?」
「ええ、その通りです」
 にやりと笑って、笹原はジャケットのポケットから煙草を取り出した。慣れた手つきで一本手に取り、巷一の方に差し出す仕草を見せる。
「吸います?」
 怪訝そうに巷一はそれを見やって、首を振る。
「いや。煙草は好きですが、ここは禁煙区域でしょう?」
「ええ、そうです」
 ライターの着火音。煙草をくわえてその先に火を灯し、笹原はひとつ息を吸い込んだ。それに合わせて煙草の先はゆっくりと赤く燃え、そして、灰に変わっていく。
 次の瞬間、笹原は激しくむせ込んだ。口から離した煙草の先から、灰がぽろぽろ崩れ落ちる。
 すぐに携帯灰皿を取り出して火を消した笹原に、巷一は「あの」と思わず声をかけていた。
「もしかして、煙草、体質的に吸えないんじゃないですか?」
「……そうかもしれませんね。吸うとほぼ毎回むせてしまいますし、あんまりおいしいと思ったこともないです」
「なら、どうして吸うんです?」
 笹原の目が、底なし沼のようによどんだ。
「たいした理由じゃないですよ」
 けれど、それも一瞬のこと。そう言いながら、近くのベンチに腰かけるときには、少しだけ訝しげに、けれど笑顔で巷一の方を向いていた。
「そんなことよりも、今回はなんの御用ですか? 前回同様、名刺で『話したいことがある』とここに呼び出した以上、なにかしら理由があるってことですよね」
「ああ、そうでしたね」
 笹原の隣に座り、巷一はふっと真面目な顔になる。
「前々から思っていたことがあったんですけど、ちゃんと訊く機会もなかったので。いろいろありましたし、改めて訊いてみようと思ってお呼び出ししたわけですがね。
 どうしてあなたは、人を不幸にしたがるんですか?」
 それに対する返事の第一声は、嘆息だった。
 虚無を顔に貼りつけて、笹原は口を開く。
「……またですか。先日、ちょうどこの場所で、あなたのお弟子さんにも訊かれたんですよ」
「それじゃあ、亮の方ですかね。あなたが利用しようとした……」
「ええ。彼に聞いた方が早いですよ。わたしは同じことを何回も話すのは嫌いなので」
 話す気が失せたとでも言いたげなつまらなそうな表情で、笹原は再び煙草を取り出す。どうせむせ込んでしまうと分かっていても、手慣れた様子でくわえて、火をつける。
 今度は、巷一がため息をつく番だった。こめかみをかいて目を閉じると『考える人』の銅像さながらに考え始める。
 笹原はおそらく、なにも語る気はない。けれど、亮に再び会えるのがいつになるのか、巷一には見当もつかない。勝手に笹原の記憶を読むのは、魔術師としてやりたくない。となると、残された手段はひとつ。
 この空間の記憶を読む。笹原がここで亮になにかを語ったのであれば、この空間の記憶にその内容が残っているはずだった。
 自分の弟子のように、記憶に関する魔法が得意だというわけではない。それでも、やるしかない。
 脳内で、素早く呪語を組み立てた。あまり頭が回る方ではない巷一だが、もう三十年ほど使い続けてきた魔法のこと、呪語で呪文を創り上げることに関しては例外だ。
 ――〈日曜日、わたしが立ち去ったあと、ここでなにがあったのかを見せろ。わたしの見たい記憶を、わたしの目の前に、等身大に映し出せ〉
 笹原の目を引かないために、予備動作はなし。呪文も声には出さず、心の中で歌うように唱えた。不安要素しかなかったもののうまくいったらしく、空間に刻み付けられた記憶が幻となり、形を持って現れる。
 巷一の目の前に、あの日曜日の笹原と亮が立っていた。

 不幸が広がれば世界は荒廃する。それを見たいんだよ――。
 そう語った笹原に、亮はひとつの問いを投げかける。
「どうして笹原さんは、世界の荒廃を呼びたいんですか」
 笹原の顔から、表情という名の仮面が落ちる音がした。
「そうだね」
 抑揚のない、笹原の声。黒々としたうつろな目で亮の方を眺めて、呟いた。
「君は、どう思うかな。もし俺が、本当は世界がどうなろうが、どうでもいいって思っているって言ったら」
「……えっ」
 困惑が亮の顔いっぱいに広がるのを見ても、笹原の表情は変化しない。
「ぜんぶ、どうでもいいんだよ。どうでもいい――いや、分からない、とでも言えばいいのかな。俺にはなにも分からない。君たちのことが、人間っていう生き物のことが。特に、感情というものを持って、急に笑い出し、怒って、泣き出すということが」
 悲痛でもなく、嘲るようでもない。
「昔から、よく分からない生き物たちに囲まれて、けれど『違う』ものは排除されていくから、見よう見まねで真似し続けて、じっくりと周りを観察することが得意になった。魔力を認識できるようになったのも、そのおかげかもしれない。他の人間とは周りを見る目が違う人がいたから、その人間たちを観察して真似していたら、いつの間にか、見えるようになっていたんだ。
 でも、だからといって、自分が得られるものは特になかった。未だに人間のことはよく分からないままだし、感情というものもよく分からない。こういう時にはこういう感情を抱くらしい――そういう知識はついても、実感がわかなくてね」
 底なしの目を、亮は見つめた。けれど、虚無に引きずり込まれるような気がして、思わず目を閉じる。ゆるりと首を振ると目を開けて、納得したようにひとつ、頷く。
「……笹原さんは、空っぽなんですね」
「どうして、そう思ったのかな」
「思い返してみれば、あなたの言うことには一貫性がないんです。軸がない。多分、いろんな人の真似をすることに精一杯で、たくさんの人の考え方を取り入れすぎたせいで、自分がなくなっちゃったんじゃないかと思うんですけど。どうですかね」
 辛うじて、笹原はほんの少しだけ口角を上げる。けれど、顔に色濃くこびりついた無に上書きされて、なんの感情も伴わない。
「それすらも、俺には分からないよ」
 ジャケットに手を突っ込んで、煙草を取り出す。一本だけ手に取って、それをもてあそびながら、ぽつりとこぼした。
「俺が荷田初宏に出会ったのは、何年前だったかな」
「はすだ、はつひろ……って、誰ですか」
 目を泳がせ、怪訝そうに問いかける亮。笹原は、煙草を見つめたまま言葉を続ける。
「名もない組織の一員で、俺が世界の荒廃を呼んでみたいと思った、きっかけを作った人だよ。この銘柄の煙草が好きで、初めて会った日も、この公園でこの煙草を吸っていた」
 手にしたものを口にくわえて、火をつける。けれど煙は吸わずに地に置いて、笹原は口を開いた。
「俺が知る人間の中では、特異な方だったと思う。初めて見たときは、あまりに普通とは違うから、人間ではないのかもしれないと思った覚えがある。真っ白な髪で、着物みたいな上着……そう、羽織を被って、袴みたいに裾の広いズボンだったよ。仕事終わりにここのベンチに座っていたら、彼がやってきて、隣に座ってきた。『お隣、いいですか?』って」
 こんなふうに、と、笹原は近くのベンチに腰掛ける。
「そして、訊かれたんだよ。生きることに疲れてはいないか、不幸のどん底に落とされて死が魅力的に見えていないか、って。……どうしてそんなことを言われたのか、そのときは分からなかったけれど、後々、気づいたことがある。彼の目は、鏡の中の俺の目と、よく似ていたんだよ。同じ目をしていれば同じことを考えているんじゃないか、って彼は思ったんだと思う。実際、間違ってはいないだろう。彼はこう続けたんだ。『かつてのボクもそうでした。でも、いまは違う。ボクがどうしようもなく不幸なのには変わりないけれど、周りの人も同じように不幸だから――みんな平等に、不幸だから。ボクが、そうしたんですよ』って」
 地に置いたままだった煙草を拾い上げ、砂を払って口にくわえた。
 瞬間、笹原の顔に表情が戻ってくる。絶望に染まった、満面の笑みが――。
「『この世界は、あまりに不平等で、不公平だ。理不尽にあふれていて、みんなが幸せになることなんてできやしない。けれど、みんなが不幸になることはできるんじゃないか? その方がまだ平等で、もしかしたら、自分の望むものを手にすることができるのではないか? ボクは、そう思うんですよ。
 不幸は不幸を呼び、荒廃につながる。そして、いつか滅びになる。みんなで一緒に不幸になって、みんなで消えていく。――その方が、一人で消えるよりもいいと思いませんか?』」
 蝉の声が降り注ぐ夏、頰には汗が伝うほどの天気なのに、全身が泡立つのを亮は感じた。
 笹原ではない、誰か――おそらくは荷田初宏が乗り移ったかのような、そんな口ぶりと、立ち振る舞いだった。
 けれど、すぐに笹原の顔には無表情が戻ってくる。
「そんなこと、考えたこともなかった。でも、もし、世界が滅べば、そのときには俺も、不幸がどんなものなのか分かるんじゃないか、と思ってね。ここ数年、ずっと彼の価値観を借りて自分の代わりにしてきたんだよ。彼の所属する名もなき組織に俺も入って、人を不幸にするためにいろいろと行動を起こしてきた。
 ――今のところ、まだ、俺はなにも分からないままだけど」

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
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