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人間の硝子

一枚硝子がらすが冷たい外気と温かな部屋の空気との境界線を引いておる。外は寒い。風がぴゅうぴゅう吹いている。暖かな室内の空気をふんどしひとつで守り抜くのは、たしかに汗をかくほどの重労働に間違いない。太朗はそう思った。今しがた彼は箪笥たんすの中にしまい込んでいた下着のようなしわをつけた薄氷を踏みつつ、家に帰ってきたのである。

ガスレンジが部屋の空気に供給するわずかな暖かみさえ、太郎の皮膚は悦びよろこ勇んでこれにあずかろうとした。文明のくぐもった香り。人間社会というのはなんと優しいものなのだろう。どんなに郷里から離れた所でも、たとえ異国の地であっても、剥き出しの自然が牙をむく冬山から降り出でて、あたたかそうな薪ストーブと煙突を煌煌こうこうと焚いている人家を見た時の、あのどうしようもない安心感、ようやく自分は人間社会に戻れるという安堵。人間は自然に対抗している。だが矢面に立たせているのは自らの命ではなく、一枚の薄い硝子がらす板だったりする。瞼を閉じれば死ぬ、そんな恐ろしい冬山の環境の中で、彼の命をつなぎとめるのはもうインクの出ないボールペンの芯や、パンツのひも、使い捨てたはずの爪楊枝つまようじだったりする。道具を武器にできる創意工夫こそが、人間が唯一自然にまともに対抗するための武器となり得る。

多くの遭難者が知っているものを、太郎も経験した。それは死に対する誘惑であった。足は感覚を失い竹馬に乗って雪道を歩いているかのようにおぼつかない。皮膚は凍傷で焼けただれ、そこにいるはずのない血の通った人間の手を握ろうと虚しく冷たい虚空を掴む。くだらねえ、と思い始める。今瞼を閉じればこの痛みや、この疲れ、もはや熱いとさえ感じるほどの激しい寒さがすべて取り払われ、無限の享楽と無感覚の世界に落ちてゆけるだろう。

だが、限界状態の中で太郎は思った。自分は生命保険に入っていない。自分が死んだら金は支払われない。

そのことが彼の竹馬のような足を一歩一歩進めてゆくエネルギーになり得たことは人間の勇気の不思議と言わざるを得ない。ほんの些細な出来事が生死を分けることがあるというのはこれ常識だが、彼にとっての「生きる理由」は生命保険の未加入だったのである。瞼が落ちる寸前、彼はそのことを思いだした。あたたかなシチューではなく、女房の愛くるしい瞳ではなかった。それらのものは全て、眼下に広がる凍結した川のように美しく隔てられた彼岸にほんんわりと浮かんでいるだけで、実体も何も伴わない。まるで夢の中の食事のようなものだった。その時彼の手元にあるのは生命保険の無味乾燥な証書だけだった。実に些末な出来事が彼の勇気を奮い立たせた。死にゆく間際に人間が思うことは想像もつかないが、この経験を得てから太朗は、生きているうちには決して、自分が死の直前に後悔する物事などに気がつけるはずがなく、人生に後悔するというのはある種の傲慢ではないかとさえ思うようになった。

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