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それでも進み続けられるか?
ーーー主人公の青年は、「役者になる!」という夢を叶えるために、実際の行動に移しました。しかし、彼を待っていたのは大きな幻滅でした。
どんなに美しく見える世界でも、きらびやかに見える世界でも、それが「人間」で構成されている限り、必ず嫌な苦労をしなければならない。
それでも、進むことができるかな?
どこかで試されているような気がします。
太宰治「正義と微笑」より。幻滅に襲われる。ーーー
「正義と微笑」より。幻滅に襲われる。
けさの僕は、立っている杭のように厳粛だった。心に、一点の花もない。どうしたことか。学校へ出てみたが、学生が皆、十歳くらいの子どもに見えるのだ。そうして僕は、学生一人一人の父母のことばかり、しきりに考えていた。いつものように学生たちを軽蔑する気持ちも起こらず、また憎む心もなく、不憫な気持ちがかすかに感じられただけで、それも雀の群に対する同情よりも淡いくらいのもので、決して心を揺さぶるような強いものではなかった。
ひどい興ざめ。絶対孤独。
いままでの孤独は、いわば相対孤独とでもいうようなもので、相手を意識しすぎて、その反発のあまりにポーズせざるを得なくなったような孤独だったが、今日の思いは違うのだ。まったく誰にも興味が無いのだ。ただ、うるさいだけだ。なんの苦も無くこのまま出家遁世できる気持ちだ。
人生には、不思議な朝もあるものだ。
幻滅。それだ。この言葉は、なるべく使いたくなかったのだが、どうも、他には言葉がないようだ。幻滅。しかも、ほんものの幻滅だ。
われ、大学に幻滅せり、と以前に猛り猛って書き記したことがあったような気がするが、いま考えてみると、あれは幻滅ではなく、憎悪、敵意、野望などの燃え上がる感情だった。ほんものの幻滅とは、あんな積極的なものではない。ただ、ぼんやりだ。そうして、ぼんやり厳粛だ。われ、演劇に幻滅せり。ああ、こんな言葉は言いたくない!けれども、なんだか真実らしい。
自殺。けさは落ち着いて、自殺を思った。ほんものの幻滅は、人間を全く呆けさせるか、それとも自殺させるか、恐ろしい魔物である。
たしかに僕は幻滅している。否定することは出来ない。けれども、生きる最後の一筋の道に幻滅した男は、いったい、どうしたらよいのか。演劇は、僕にとって、唯一の生きがいであったのだ。
(中略)
僕のけさの気持ちは、そんなものではなかった。むなしいのだ。すべてが、どうでもいいのだ。演劇、それはさぞ、立派なものでございましょう。俳優。ああ、それもいいでしょうね。
けれども、僕は、動かない。ハッキリ、間隙ができていた。冷たい風が吹いている。世の中が、ばかばかしい、というよりは、世の中に生きて努力している自分が、ばかばかしくなるのだ。
ひとりで暗闇で、ハハンと笑いたい気持ちだ。
世の中に、理想なんて、ありゃしない。みんな、ケチくさく生きているのだ。人間というものは、やっぱり、食うために生きているのではあるまいか、という気がしてきた。味気ない話である。
(太宰治著「正義と微笑」青空文庫より引用)
書評 ~登る時が一番たのしい~
夢を追うことはマラソンや山登りによく喩えられます。ゴールした時の気持ちはどんな感じなのだろうか。あの山のてっぺんにたどり着いたときにはどんな景色が待っているのだろうか。そんな美しい「期待」を胸に、私たちは何かを目指して歩いたり走ったりを繰り返します。
この主人公は「役者になる」という夢を叶えるために実際の行動を起こしました。劇団の採用オーディションを受けたのです。
しかし彼を待っていたのは、どんなに愚かで無能に見える者でもその中に一握の砂金のような才能を隠し持つ人物を鋭い目で見極めるような、老練した面接官などではありませんでした。一般的な「就活」と全く同じような面接でした。つまり、どれだけ自分を大きく見せられるか、うわべを飾り立てるのに腐心できるかが一番重要となる、あの退屈な就活と全く一緒なのです。
彼は「俳優になる」という頂上に立つために、一生懸命登り坂を踏みしめていった。いろんな道があった。一度足を踏み外せば奈落の底に真っ逆さまに落ちていくような時もあった。
だが、いざ彼が頂上の手前にある急登に取り掛かろうとした瞬間、彼はふいに我に返って周りの景色を眺めてみた。そして、気づいてしまった。
自分が見ている景色が、普段「こどもだ」とか「無智蒙昧だ」とか言って馬鹿にしている学生たちの見ているものとほとんど同じであることに。つまり、演劇の世界とて決して浮世離れした高尚なものでは無く、普通のサラリーマンと全く同じ苦労を重ねななければならないものであることに、主人公は気づいてしまったのです。
夢を追う人間には、必ずこの瞬間が訪れます。つまり、自分の追っていた夢が自分の思っていたほど素晴らしいものではなかったことに気づく瞬間。どんなにきらびやかに見える仕事でも、良い事ばかりではないことに気がつく瞬間が。
そのとき、「俺はこんな高尚なことに従事しているんだぞ」などと変に高いプライドを持って周りの人を見下していた人も、鼻っ柱をくじかれたようにシュンとなってしまう。
どのような世界にも、それが「人間」で構成されている限り、かならず嫌な苦労はあるものです。
しかし、それに気づいたときはむしろチャンスなのではないでしょうか。それでも続けられるかどうかを試されているような気がするのです。
「ああ、こんな苦労をするくらいなら、俺が馬鹿にしていた連中と同じように普通に就職して普通に暮らせばよかった!!」な~んて心の底から実感したとしても、それでもその道をつきすすめる人、登り坂を踏みしめることができる人でなければなりません。諦めずにその道を進んでも、上手くいくとは限りません。惨めな最期が待ち受けているかもしれません。その道を進んでも、さらなる大きな幻滅が待っているかもしれません。
しかし、それでも進むのです。
どんなにゆっくりでも、進んでさえいれば見える景色は違ってきます。大成するかどうかはこの際問題ではありません。評価されたいならば結果をださなければならない。
でも、本当は進むことにこそ意味がある。
山登りをするときも、頂上に着いて甘いお菓子を食べているときよりも頂上を目指してヒイヒイ言いながら登っているときの方が楽しいものです。
今日もお読みいただきありがとうございます。皆様の一日が素敵なものになりますように。