「善いもの」ばかりがほめられる
ーーーいつから私たちは社会と上手く折り合いをつけることができるようになるんだろう?
「あれはダメって言われてるけど、黙っときゃいいだろう。てか、あれは必要なことだしな。」
大人たちに建て前上の道徳ばかりを押しつけられた子どもたちは、いつかその殻を破らなければならない時が来る。
本音と建て前を使い分けてうまくやらなければいけないのは、社会的には「悪」とされているものと私たちの生そのものが、切っても切り離されない関係にあるからではないだろうか。
ヘッセの傑作「デミアン」より。神と悪魔のお話をお届けしますーーー
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ヘッセ「デミアン」より。神と悪魔のお話。
ある日のことだった。僕はデミアンと二人で座って、牧師の講義を受けていた。牧師は新約聖書のゴルゴダの丘での出来事について話していた。誰もが一度は聞いたことがある、「イエス・キリストは十字架に磔にされた」のお話である。
一緒に十字架につけられた悪党の一人が悪態をついてイエスに言った、「もしもお前がキリストならば、自分で自分を救い、また俺達を救ってくれればいいだろう。」デュスマスという名の男の方が相手を叱って言った、「お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れることをしないのか。俺達には当然のことさ。俺達は自分のやったことにふさわしい罰を受けているのだからな。しかしこの方は何の悪いこともしておいでではないのだぞ。」そして言った、「主よ、汝の御国にて私を思い出して下さいますように。」イエスは彼に言った、「まことにまことに汝に告ぐ、今日汝は我と共に天国にいるであろう。」(Wikipediaより引用)
すると、デミアンは聞こえよがしにこんなことを言い出した。
「これがね、僕の気に食わないことなんだよ。もう一度よくあの物語を読んでみたまえ。そして、舌でよく味わってみたまえ。なんとなくまずい味のようなものがするぜ。それはね、ふたりの盗人の件だ。あの馬鹿正直な盗人の話はどうだい。はじめその男はどうしようもない悪漢で、どんなに悪事を重ねたのか分からないくらいなのに、今度はすっかり弱気になって、改心と懺悔の哀れっぽい祭典を上げるんだからね。こんな懺悔が、死ぬ一歩手前の状況でいったい何の役に立つって言うんだい?これだってまた、涙っぽい味と、この上なくありがたい、めそめそとした、嘘っぱちの、本格的な坊主風情の話というほかないよ。もしも君がこの悪党2人から友達を選ばなければならないとしたら、君が選ぶべきはもちろんこの哀れっぽい転向者じゃないね。もう一人の方だ。こいつはたのもしい男だし、気骨がある。そいつは我が道を最後まで歩いていく。そして、それまでそいつと手を組みあってきた悪魔と、最後の瀬戸際まで縁を切らないんだ。すごいしっかり者さ。そしてこうしたしっかりとした連中は、聖書の中ではとくに貧乏くじを引くときてる。ことによると、こいつもカインの子孫かもしれないぜ。そう思わないかい。」
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