なぜわたしは水浸しの靴を脱がなかったのか?
2024年8月24日(土)から1泊2日三島でフィールドワークを行った。これはそのフィールドワークのメモであり、私自身の振り返りでもある。
事前に情報はほとんど収集せずに、なんとなく子どもたちの遊びの様子について見たい、ということだけをもってその場に赴いた。
三島には源兵衛川という、水のきれいさで有名な川がある。
その周辺ではどんな遊びが行われているんだろう。そして子どもたちの遊びが変化する契機とはどんなものだろう。
そんな問いをもってとりあえず源兵衛川へと足を運ぶ。
その日は増水していたこともあって、川の中に設置された石を歩くのは、水浸しになるリスクしかない選択だった。(ということは後から気づく)
靴を脱がずに水中を歩き続けた
途中までは靴の撥水効果によってなんとか耐え忍んでいたが、途中からもう全く抵抗することができないくらい靴が冠水した。
その場で靴を脱げばよかったのだけど、なんでか靴を脱ぐことなく、歩き続ける選択をとった。
今から思うと、
「ここで止まってしまうと後ろの人に迷惑がかかるかも」というのは外行きの言い訳で、「もう歩くって決めたし、ここで脱いじゃうのはちょっと違うかも」という理解が難しいプライド・規範意識によって突き進んだ、というのが正しいのかもしれない。
あれ、この自分の心理、もっと審らかにしたらおもしろいのでは…。
”困っている”像を投影されたくないわたし
自分で決めたことを貫くかどうかにおいては、単純なコスト(脱ぐ)―ベネフィット(濡れない)の比較だけじゃなく、信念や見え方の一貫性といった価値パラダイムが優先されることがある。この価値パラダイムは実はそんなに言語化することなく「当たり前じゃん」という感覚で他者に投影していることがあるかもしれない。
それでいくと、わたしは何かトラブルがあった時にその場で止まること、大げさに騒ぐことがどうも苦手で、何事もなかったかのように過ぎ去りたいという行動をとりがちである。
それは周りに”困っている”=”助けを求めている”という像として見られたくない、という想いがあるのかもしれない。「いえ、わたしは大丈夫ですから」とその場を逃げ去りたくなるのだ。
今回の靴の冠水も、その場は何事もなく歩きとおしたが、フィールドワークの現場についた時には、靴も靴下も脱いで裸足でその場に居座っていた。その状況も困っている像になるじゃないかと思われそうだが、どうも違う感覚な気がする。
それは冠水直後ではなく、自分ですでに「困っていることを解決しようとしている人」としていれることで、他者の対して助けてのシグナルを出さなくてよくなるから、な気がする。それに今回はフィールドワークをする上でその場にとどまっているいい理由になったじゃないか、と自分の行動を正当化しやすくなって、自分は何も助けてほしくないですよ、ということを演じやすかったのもあるかもしれない。
意識ー像ー感情という結びつきの奇妙さ
そういうことを振り返ると、わたしはどうしても恥ずかしさに耐え切れなくなりやすいのかもしれない。わたしにとっては助けてほしいということは恥ずかしさにつながっている。その奥には、わたし「なんか」が他者の労力を借りるなんて滅相もない、という想いがある。
わたしなんかという自己意識/助けてもらうという他者との関わり/恥ずかしいという感情
自己ー他者関係を規定する意識・像・感情という結びつき方は本来色々あるはずだし、このつながり方はそれはそれで”奇妙”なことなのかもしれない。
そこから生まれた問い
・助けを求めるための心理的なハードルってどんなものがあるのだろうか?
・わたしが他者に関わる時に見せたい面の無意識的な選出って、どうやったら変容するのだろう?
・恥ずかしさを恐れる気持ちと、どのように向き合ったらいいのだろう?一緒にいるよ、って伝えてみたらどんな言葉が返ってくるだろう?
フィールドワークの現場に着く前に終わってしまった…。
わたしの旅は続く。