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縁(エッジ)こそが遊びのアルファでありオメガである

2024年8月24日(土)から1泊2日三島でフィールドワークを行った。これはそのフィールドワークのメモであり、私自身の振り返りでもある。

初日のフィールドワークで、井戸というモノに惹きつけられた遊びの始まりと終わりを見てきた。
そこで生まれた問いは、
■そもそも遊びとは何だろうか?
■モノを介した遊びは見えやすいが、それ以外の遊びはどのように起こり、どのように変遷するのだろうか?
というものだった。

そこで、2日目は公園内にある水辺をフィールドワークの現場として選定し、そこでどんな遊びがどのように行われているのかを見るようにした。

遊びは縁(エッジ)で始まり、変化し、終わる

遊びを観察する中で見えてきたのが、遊びは縁(エッジ)で始まり、変化し、終わるという仮説だ。
その縁(エッジ)が遊びにもたらす影響は以下のパターンがありそうだ。
①ホームと水辺とのあわいとしての縁(エッジ)
②遊びの変化をもたらすものとしての縁(エッジ)
③見えない終了線としての縁(エッジ)

①ホームと水辺とのあわいとしての縁(エッジ)

これは幼児に多いパターンだが、親がいるところをホーム場としたときに、その近くの水辺に足をつけるという行動がこれにあたる。

自ら進んで足をつけに行く子もいれば、親と手をつないで一緒に入っていく子、親にだっこされながら、水のところで着水させてもらう子など多様なあり方を見せるが、ホームから遠く離れずに縁の部分で水に入ることを試みる、という点では共通している。

長い時間浸かっていると冷たくなりすぎたり、深くなって怖くなったらすぐにホームに戻れる、という安心感が遊びを開始させているのではないだろうか。

遊びが始まる縁は、このようにホームと遊び場のあわいとして出現する。
どこまで遠くに行けるかは、安心感の大きさと好奇心の強さ、自分なら大丈夫という肯定感などによって左右されるのだろう。年齢が上がるほどに、遠くまで勝手に歩いて行けるのは、それぞれの要素が高まっていくことと相似なのだろうと思う。

②遊びの変化をもたらすものとしての縁(エッジ)

小学校2~4年生ぐらいの子どもたちは、ホームと水辺のあわいを超えて自分たちでどんどん水の中を探索していく。

彼らがどんな道筋を行くのかを詳しく見てみると、まずは縁を探るように歩いているのが目についた。どこまでが水があり、どこまで歩けるのかを自分の足と目で確認するかのように、端っこをどんどんと進んでいくのだ。
ある程度のところまで探索すると一度ホームに戻り、時には網やペットボトルなどの道具を持って、違った縁へと探索を再開する。

そして、公園内の水の配置がなんとなく把握できると、勝手に遊び方を見出して、歩くだけではない遊びへと移行していく。その際に大きな機能を果たしているのも縁(エッジ)だ。

水の勢いが変わる縁(エッジ)

公園内には、段差がある箇所が複数あり、そこでは、上流から下流へ向けて水が流れている。足で浸かっている時にも水の流れを感じることができるが、ここの縁の部分に来ると、他の場所以上に水の速度・流れを感じることができる。水が落下するときに加速するからだ。

縁(エッジ)を発見した時に、浮き輪をもっていた少年は下に落ちないように手で漕いで抵抗し続ける遊びを始めた。またある少年は自分のサンダルを水の流れにのせてどこまでいくかを何度も試行していた。

つまり、ホームと水辺のあわいから遊びが始まり、縁(エッジ)による変化を見出すことによって、これまでとは違った遊び方に移行していくのだ。体の使い方としても、足だけ水に漬けていた状況から移行し、手や全身を使って水の流れとの相互作用を始めるようになる。

水の流れの可変性、多様性の発現場所としての縁(エッジ)。
それとの出会いによって、身体の使い方を変えてみたくなる衝動が生まれる。
誰もこう遊んでほしいとは言っていないのに、ついついやってしまうことのおもしろさがここにはある。

水辺遊びの時には縁(エッジ)が大きな転換点として機能していたが、それ以外の遊びの時には、もしかすると次項の目に見えない縁を設定することが遊びを象っていっているのかもしれない。

③見えない終了線としての縁(エッジ)

公園のすぐ横に川が流れている。そこでは子どもたちはどのように遊んでいるのだろうか。
浮き輪を持っていた子たちは、川の流れに身を任せて、ただただ下っていっていた。その内部でどんな試行錯誤があったのか、どんな遊びとして見立てていたのか、というところまでは感受することはできなかったのが残念だった…。

ただ、彼らなりにルールはあるようで、かならず川の内側で日向の部分を流れること。浮き輪への乗り方は毎回一定ではなく、足をつけてみたり、腕で漕いでみたりしていたこと。
そして、何よりおもしろかったのは、必ずある一定の線を超えると浮き輪から降りて上流に戻ることだ。

たしかに川の下流にある橋には、ここからは遊泳禁止と記されているが、それよりも大分、手前のところで彼らは浮き輪から降りている。
きっと見えない線として、ここで一旦終わらせる、ここが縁(エッジ)である、という見立てが生まれているのだろうと思う。

この自分なりの縁取りは、①のホームと水のあわいと共通する性質を持っているのではないだろうか。ホームにいつでも戻れる安心感が足をつけるという遊びを誘発させていたが、この終了線も自分の中で縁取ることによって安心感を創り出し、再び遊びへと向かうための一旦終了をもたらしているのではないか。

そして、その縁取りは何度も繰り返すことによって強度が増し、同時に安心感も増していく。だからこそ何度も繰り返しながら、ホーム⇔遊びの往還をしているのではないだろうか。

そのため、ここでの終了線はあくまでも再び遊ぶための一旦の縁取りにすぎない。だから、野球やサッカーといった遊びにおけるルール(ないしは規範)とは少し違う。

どちらも遊びを続けるために必要であることは共通しているが、それに違反することで何かしらのペナルティが加えられるものではなく、あくまでも自分が創り出せるし都度微妙に変更を加えることができることが違いだろう。

縁(エッジ)をキーワードとして遊びを見てきたが、これは遊びの円環モデルなのかもしれない。一旦の終了も再び遊びに戻るための手段だとしたら、遊びをやめてしまうという意味での終了は別にあるはずだからだ。

では、何が遊びを終わらせるのか?
疲れたから?飽きちゃったから?親がもう終わりだよと言うから?
いや、どれも当たり前すぎて驚きも納得もない…。
この部分の遊びからの離脱を精緻に見て取ることができなかったのが残念ポイント、その2だ。

遊びとは?

その後、ゼミに戻ってフィールドワークの報告をした際に
わたしは遊びを「身体への刺激に変化を生み出そうとすること」ではないかと考えていることを話した。
足から始まって、手や全身を使って水を堪能するように遊んでいく移行を見ながら思いついた仮説だったのだが、一方でどこかしっくりこない部分も抱えていた。

水上さんからも「刺激という言葉で片付けてしまうのはもったいない」という指摘を受けたが、まさにその通りだと思う。

これは次回、より詳しく振り返りたいのだが、このことはあまりにも行動主義的に遊びを捉えてしまっている自分との出会いだった。あんなにも頭ではそんなに単純ではないと理解していたにも関わらず、結局はそこに回収されてしまうことへの嫌悪感を抱いた瞬間でもあった。

今、この記事を書きながら思うのは、「縁(エッジ)こそが遊びのアルファでありオメガである」というテーゼの方がしっくりくるということだ。
わたしたちは目に見える/見えないにかかわらず縁(エッジ)を探索しており、そことホームとの往還を繰り返しながら徐々に行動を変質させていく。そんな世界との関わり方を「遊び」と呼ぶ、といった方が広く遊びを捉えられている気がする。

新たに生まれた問い

■石を投げるという遊びはなぜ楽しいのだろう?
刺激をキーワードにして遊びを見るとしたら、うまく救い上げられない事象として石やサンダルを投げる遊びがあると感じていた。自分から遠いところにわざわざものを投げて刺激を遠ざけるということに何のフィードバックがかかっているんだろうと感じたからだ。

ただ、縁テーゼをもとにこれを見直すと、もしかすると何かを投げる遊びは自分なりの縁を象る遊びなのかもしれない。自分の身代わりとしての石が飛んで行ったところまで縁として認識する、それをどこまで広げられるかを試みる遊びとして見ると、しっくりくる。

■遊びの終わりとはどのように迎えられるのか?
残念ポイント、その2でも書いたが、本来的に今日はこの辺で遊びを終わろう、と思い始める契機が何だったのかを見取りたかった。
そのことは、きっと没入する瞬間、そこから覚める瞬間、そのあわいに自分が興味があるからだと思う。

子どもたちはぶつ切りに遊んで、終わるということはなく、何かの延長戦なのだけど、非連続的に没入して、そこから還ってくることを自然に行っているはずだろうという仮定がある。だからこそ、そのぎりぎりのポイントで何が起こっているのか、そこに大人はどのように関わっているのか/いけるのか、ということが気になっている。

このことはもしかしたら、学びの中における遊びとは違った様相を示すかもしれず、もっと探索が必要だと感じる。

わたしの旅は続く。

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