遊びと飽きと身体~フィールドに向けて~
かなり頭でっかちですが、思考の整理として…。
フィールドワークを進めるにあたって、遊びについてより精緻に言語化してみたい。
遊びをどんなタイプの活動があるかといった類型に分ける道も確かにあるかもしれない。ただ、それだと世界の遊びを収集して分類するタイプの研究になっていくだろう。もちろんそうした大全のような研究の重要さは間違いないが、自分のやりたいことではない。
遊びはいかにして生まれ、いかにして移行するのか?というのが自分が気になっている問いだからだ。
文献を読んでみると、遊びの定義問題はやはりかなり難問であることが指摘されていることが多い。定義してみることで、そこから零れ落ちてしまう遊びのパターンが見つかってしまうからだ。
遊びを存在様態として捉える
西村(1989)が下記のように言う通り、遊びを現象学的に捉える道であろう。
そこで彼が言っているのが、遊びを存在様態として捉える、ということである。
その関係性とは、中動態的であるということ出来るだろう。
つまり、わたしは今遊んでいるのか、遊ばれているのか分からない、という主客が定かではないが、間違いなく遊びの関係性に取り込まれている状況の事である。気が付いたら遊んでしまっていた、という感覚が近いかもしれない。
もちろん遊ぼうと思って活動に取り組むことは多くあるはずだが、その中で、遊びの存在様態になるには、そこで没入し自分と他者・モノとの境目が融けることが起きているはずなのではないか、という主張だ。
このことが正しいとすると、遊びは因果モデルで(ましては行動主義的に)捉えることは難しいはずだ。これを与えたら遊ぶはずだ、というのは大体大人側のエゴだからだ。そうした因果モデルの想定で渡された環境でも、遊びは気が付いたらその意図を軽く飛び越えて流用され、全く違った文脈として勝手に生起してくるエネルギーを持っている。
それはどこか縁起のような考え方なのかもしれない。気が付いたら環境の網の目の中にからめとられ、ついつい遊んでしまうような主体と世界との関係性のことを言っている。
遊びの不確実性が面白さにつながる
ただ、無条件で遊びの関係性が紡がれるわけではない。田中(2024)が遊戯療法の文脈で述べるように、遊ぶ主体を誘うのは、遊びがもっている不確実性である。
筋書きが書かれていなく、自分のアクションによってその都度どうなるかが変わっていく不確実性があるからこそ、遊びがもたらされる。
このことは遊びの壊れやすさも導く。つまり、わたしたちは不確実性に誘引されて遊びの関係性へとからめとられるのだとすれば、その適度な不確実性がなくなってくると、遊びの関係性がほどけてしまうことになる。
不確実性が増しすぎてしまい混沌と化すと、それは逸脱の快は得られるかもしれないが、それ以上の遊びを誘引することをやめてしまうし、不確実性がなくなってしまっても遊びがタスク化してしまって面白みがなくなってしまうからだ。
だからこそ、遊びとは適度な不確実性を乗りこなし、秩序と混沌との間隙を縫うサーフィンのような動的な関係性なのかもしれない。
飽きることの意味とは~遊びとの関連~
そして、遊びにおいて不確実性が消失し秩序に向けて走り出してしまうことへのアラートを出してくれるのが、河本(2010)がいう所の総合的感性としての”飽き”なのではないだろうか。
さらに河本は飽きる力として、「間をとるとか、経験を遅らせるということです。すぐにがんばりの態勢に入ったり、すぐにいつものパターンの作業に入るのではなく、少し距離をとって選択の場所を開く」といった効用をあげている。そうした隙間を開こうとしている感性として飽きは機能していて、私たちに気づきを与えるというのである。
このことは、遊びがなぜ続かないのかを考える上で有用な捉え方だと考える。なぜなら、飽きることは同じことの繰り返しへの拒否反応なのではなく、次の可能性を模索するフェーズであるとすることによって、遊びと遊び、遊びと日常との連続性を捉えることができるようになるからである。
以前、縁(エッジ)こそが遊びの始まりであり終わりである、という記事を書いたが、この縁に当たる部分に飽きが来るのではないかと思っている。つまり前の活動の飽きの余韻が新たな可能性を模索しており、不確実性に出会うことによって遊びが生成される。その遊びもいつかは不確実性がなくなり飽きる。そこでぱっきりと断絶されるのではなく、次の可能性の模索という感性は働き続けている、待ち構えているいるのではないだろうか。そして飽きー遊びー飽きという繰り返しの中でわたしたちの生活は形作られているのではないだろうか。
飽きの出現パターン
そうした始まりでもあり終わりでもある飽きはどんな時に現れるのだろうか。大きくは不確実性が消失するときなのだが、それは今のところ以下の5パターンほどがあるのではないかと考えている。
イメージの枯渇:生成されるものがなくなる、何をしたらいいと言うのだ!
偶然性の必然化:仕組まれている、どうせこうなるんでしょ
遊びの客体化:主客の融け合いが解除される
活動への切り崩し:タスク化・こなす
自己効力感の低下:自分が何をしても変わらない、変化がない、生成されない
①イメージの枯渇:生成されるものがなくなる、何をしたらいいと言うのだ!
サーフィンのように動的な関係性の中で新たに生み出すものがなくなってしまう、不確実性によって誘引されたイマジネーションやイメージが枯渇してしまうといったことである。
そのことによって、新たな触発が生まれなくなり遊び自体の面白さがなくなってしまう。その時に、もっと違う遊び方ないかな、これちょっと飽きたね、ということが起きてくるのではないか。
②偶然性の必然化:仕組まれている、どうせこうなるんでしょ
①とも関連するが新たなイメージが触発されないと、結局はこうなるじゃんという風に偶然性がなくなってしまう。偶然性がもたらしていた不確実性がなくなってしまうことにより、飽きが生じるパターンである。
③遊びの客体化:主客の融け合いが解除される
遊びをしていて、はたとこれは何の意味があるのだろう?と客体化されてしまうパターンである。理性がカットインしてくることによって、中動態的な関係が崩れてしまうこと、ともいえるかもしれない。
トレーディングカードなどを集める中で、はたとこれだけ集めて何になってしまうのだろう?という問いや、アプリゲームでチュートリアルが終わった後に、これに時間を使っていいものか?といった問いが押し寄せることがある。
それは、自分は~~すべきだといった規範や文化的な雰囲気が要因のこともあるだろうが、客体化されてしまった時のズレが一挙に不確実性を崩し、関係性をほどいてしまうのである。
④活動への切り崩し:タスク化・こなす
これはプロセス自体を楽しむはずだった遊びが結果を求める時に起きてしまうことと言える。塗り絵が分かりやすいかもしれないが、これを塗らないといけないとなった途端に全く面白くなくなる現象である。
⑤自己効力感の低下:自分が何をしても変わらない、変化がない、生成されない
これは、遊びの側の秩序が固まりすぎてしまって、遊び手の逸脱が許されなくなることによって発生する飽きである。クソゲー・無理ゲーと呼ばれる類のものがここに位置する。何をやっても絶対にクリアできないということだったり、何をしたらいいのかすらわからない状況が延々と続いた際にもたらされる飽きである。
どこをフィールドワークするのか?
と、ここまで理論編的に遊びと飽きの定義やパターンを模索してきたが、大切なのはこれから。こうした飽きのパターンを仮定した時に、自分はどんなフィールドを選んだらよいのだろうか?どこでこうした飽きを観ることができるのだろうか?という問いにどう応えるか。
今のところの暫定解は座禅と職場での身体技法である。
座禅は上の①~⑤までを全て退けようとする営みだからこそ、意識的に飽きに対峙することが多くなるのではないか、という予見があった。だからこそ、座禅に取り組むコミュニティをフィールドワークしてみることで、どのように飽きを感知し、それを乗りこなそうとしているのか?を見出すことができるのではないか、と思っている。
ただし、座禅に関しては、インタビューをしてすぐに答えられるものではなさそうでもある。なぜなら言語化することすらも雑念である可能性があるからである。また座禅中の身体技法を観察することで飽きを捉えることもかなり難しい。動かないことこそがよいことなので、微細な動きを感知することが傍からは極めて困難だろうからだ。
そこで、座禅自体は自分の身体の使い方として何が起こっているのか、飽きということで座禅を捉え返した時に何が見えてくるのかを当事者として見てみる場として取り組めたらよいと思っている。
次に職場での身体技法については、「飽きるからだ」を発見するチャレンジとして行いたいと思っている。
職場での仕事の様子をビデオで撮影して、飽きる直前の動作、飽きている最中の動作、飽きた後の動作がどのようなものかを探ってみる、という調査である。
同僚にお願いすれば、どこで飽きたかのインタビューも実施できそうなので、当事者との意見のすり合わせもしつつ、身体がどのように環境と相互作用して飽きが生まれてくるのかを観れたら面白いのではないかと思っている。
わたしの旅はつづく。