【異世界介護探訪記】 ♯2 宮崎駿の描く理想の保育園(中編)
どーも,ぶーちゃんです.「異世界介護探訪記」連載第二回をお送りいたします.前回の連載では,「宮崎駿の描く理想の保育園(前編)」と題しておきながら,実際にはその建物のかたちが丸い!と触れただけで,あとは赤瀬川原平の『四角形の歴史』やら,日本のユニットケアの事情やらへと話が脱線してしまいました.この連載ではべつに現実の介護問題を論じるための出汁にフィクションを使いたいわけではなくて,むしろフィクションで描かれている物事を丁寧にことばにしてみることで,その世界のなかに入ってみたい,いわば〝ことばにする指先をつうじてのVRな旅〟というのがそもそもの動機なので,今回は雑談すくなめでいこうと思います.さて,どうなることやら.それでは,中編をどうぞ.
前回の投稿のさいごに「暮らしを "囲む" のと, "囲う" のと,ではぜんぜんちがう」という一言を書いた.
そういえば,この保育園にはおおよそ〝囲い〟というものがない.
園舎のまえには小さな丸石がふたつおいてある.
その間を抜けて園内に入るわけだから,これが一応,門の役割をはたしているのだろうけど,とはいえ「門」と言うにはいささか心もとない.高さが膝丈ぐらいしかないのだ.
だからこれは人を入らせない,ないし出させないための囲いではなく,ここからが園であることを示すためのめるくまーる,〝敷居〟というべきものだろう.もちろん,膝丈ぐらいしかないのだから,敷居はとても低い.
(「敷居」と打ち込むと,ついメニングハウスの『敷居学』〔2000〕のことを考えたくなるけど,いまはこのちゃちな衒学欲望を抑えよう.)
当の園舎は土造二階建てだ.
土造というのも珍しいけど,さらに目を引くのは屋根で.
屋根が〝茅葺〟ならぬ〝草葺〟の「草屋根」[18]になっている.
屋根は草木で覆え!
古墳のようなと言ったらいいか,鏡餅のようなと言ったらいいか.とにかく大小ことなるふたつの円が,一階,二階と段々になっていて,その屋根がもはや草原のように草生している.
だから風が吹くと揺れて.
テンプレを使えば,そよそよと音がするが,でもSOYOSOYOとか,そんな母音と子音が行儀よく並んでいる感じではなく.もっとこうzqqzatawaaaとホワイトノイズのような音だったりする.
そしてフワっと緑のかおりがする.
靴の裏の,地面の粘る感触も足せば,味覚以外の四感が同時に刺激されているのがわかる.
その屋上にあたる草屋根に一本の木が生えている.
そこで少年がひとりで木登りをしているけど,かれは自然の〝ナカ〟で遊んでいるのか.それとも建物の〝ソト〟で遊んでいるのか.ウチとソトの境界を問うとわけがわからなくなってくる.
「屋上緑化」のように,コンクリートの上面積だけが芝生なのであれば,それはたんに「屋上」を「緑化」しただけで,「屋上」と「緑」とは別々だが(だから手入れをするために生やされるような芝生が植えられるのだ),草屋根の場合はそこで独自の生態系が生まれてしまっている.なにせ木が生えているのだ(しかも土造の園舎の上に...).
ちなみに,草屋根は放置すると...,
こんなことになるらしい.
ブログの解説文によると,「写真の三本の木は、背景の森ではなく、屋根の上に生えているもの」とのこと.
園舎の壁はカラフルに,赤,黄色,水色,ピンク,白,青,オレンジ,黄緑,そしてまたピンクと縦じまの太いストライプで塗られている.
モノトーンの近代建築に慣れてしまったわたしからすると,若干子供っぽい気もしなくはないが(いや保育園なのだからそれもアリか),あえて深読みすれば,壁のこの色彩は,〝単一〟に対する〝多様〟を,いまふうに言えば,ダイバーシティを意味しているとも捉えられる.
高層ビルのガラス窓では,鳥は激突して死ぬだけだが,草屋根では巣を作れる.春夏になれば,虫(「蟲」と書くべきか?)も沸き,花も咲き,実もなるだろう.
園児だけでなく,自然と蟲も共生している.
(虫嫌いにはただの地獄絵図だが.)
さて,屋根ばかり見てないで,さっそく建物の中に入ろう.
入り口で靴を脱いで,裸足になって.
案内されたのは「保育園の中心になる大部屋」[13]だ.
床は土で作れ!
すると,次のめるくぶるでぃひな事実に,おもわず鳩が豆ぽっぽーを食らわされたような表情になってしまう.
なんとッ床が土で出来ているのである.
ついさっき上でこの保育園は自然と建物の境界があいまいだと書いたばかりだと言うのに,部屋に入ると床が土.
もはやここはソトなのかナカなのか,とイチイチ問うのも疲れる.
フローリングではなく土の「タタキ」(と言うらしい)[15]で出来ているから,床は平らではなく,当然,ちいさな坂と凸凹だらけで.
足元はおぼつかなく,立っているだけでバランスを取るのがむずかしい.
足の裏に土の感触がしてそわそわ.たしかに気持ちがいいけど,こっ,これはさすがに後期高齢者にはむっ,無理なんじゃ,と案ずるのが先か.ドテッと,コーディネーターの(宮崎駿のような,豚のような)おじさんがさっそく尻もちをついていた.
おじさんの尻もちなんて,まさに絵に描いた餅.食えない餅だ.
(しかしこれが介護施設だったら残業して事故ほー案件である.宮崎駿だってこの頃すでに還暦を越えているのだ)
ところが園児たちはどうだろう.
床,というか土の傾斜をもろともせず,平然とテクテク歩いている.
っく.さすがにADLが高い.
(子どもが子どもだった頃,子どもであることを知らなかったくせに...)
椅子はないから(ちなみに机も一卓しかない),座るのは,すり鉢状の床のくぼみである.
園児たちが円を囲んで上手に地べた座りする,その「一番低い所」[14]にはキッチンがあって,年長生だろうか? 昼食の配膳を手伝っている.
献立はなんだったっけ? たしか一皿料理だった気がするけど,メモするのを忘れた.
配膳に限らず,ここで学ぶことになるのは,「火をもやせる.火を消せる」,「ハサミや針と糸をつかえる」,「包丁やナイフを使える」,「ヒモ(ナワ)をむすびほどける」[15]といった手仕事に関わるものばかりだという.遊具などは置いてないらしい.
でもだからだろうか.園児たちの表情を見ると,手仕事の習得そのものが遊びと同じであることがわかる.
火に水をかけるとジュッと消える.触ると熱い.
布に糸を刺すと,破れたものを縫うことができて,鋭利な刃物で木の皮が剥ける.紐を回すと木が括れる.
それはすでに科学の領域で.「サイエンス」(とは〝scientia〟つまり「知識」)など知らなくても,すべてが発見に満ちている.
あらかじめ用途を決めなければ遊びは生まれるのである.
(DIY好きの子どもが育ちそうである.)
と,そんな園児たちの姿を見ていると,介護施設の「高齢者レク」のことが頭に浮かぶ.
いまではもっぱらいわば〝子どもの頃にやった遊びを高齢者になってからふたたびやる〟という数奇な「Re:クリエーション」の意味合いを帯びてしまったように思うが,もともとは以下のような用例で使われたらしい.
「レクリエーションの語源的意味は,英語として最初に用いられたrecreationの『食事を共にすることによってリフレッシュすること,軽い飲食,(精神的影響および飲食による)元気回復,滋養』という1390年の用例に求めるのが妥当であると考えられる.」[下掲書 7]
「食事を共に」して「リフレッシュ」するのは,なにも「飲」み「食」いの場面だけに限った話ではないだろう.
食事を共にするためには,作らなければならないし,料理するには材料も要る.皿や調理器具も準備して,テーブルも片付けなければならない.
野菜を煮れば柔らかくなるし,肉や魚を焼けば音がして,匂いがする.
IADLと五感を要すこうした一連の生活プロセスそのものが,語源的に言えば「レク」で.機能訓練で.
だからたとえば香川県の「うどんレク」という選択は原義にかなっている.
つまり日常の〝ソト〟に「レク」の時間を設ける必要はかならずしもなくて.
生活の〝ナカ〟にだって(いや〝こそ〟)レクはあるのだ.
(ここにもまたソトとナカの〝囲い〟の問題が???!)
また脱線してしまいました....
(後編は4月1日にアップします.お楽しみに.)