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「生きる」に感謝を込めて。ーNHKザ・ヒューマン 揺るがない息吹を

優しさとは、生きるとは、何だろう。

そんな事をずっと考えていたのには訳がある。
先日放送された、NHK「ザ・ヒューマン」にて、関ジャニ∞安田章大が「『偽善者』と言われて動けなくなってしまった」と話していたからだ。

この番組を見終わったあと、正直言ってモヤモヤした。
すぐに感想を書こうと思ったが、全く手が動かないのだ。

それはいろんな感情が渦巻いているからであり、「優しさとは何か」「生きるとは何か」という知りたい欲求があるのに、その答えがないからであり、言葉という媒体を使って感想を述べるには、いささか無理があるからだ。

一週間も熟考したが、綺麗でまとまった文章が書ける気がしなかったので、そのまま思ったことを書くことにした。

”ありのまま”で。

▶1:番組の内容

番組の内容をサクッとまとめる。

安田章大氏は、人から軽いノリで「偽善者か!」と言われたことが引っ掛かってた。
当時、東日本大震災でジャニーズのアイドルたちは被災地へ応援にかけつけていたが、彼は被災地に出向くことができなかった。

「被災者の方々の力になりたい気持ちは間違いないが、自分に何ができるのか?それは本当の優しさなのか?」

自身が淡路大震災の被災者であったが、彼は「偽善者」という言葉に囚われ、その”優しさ”ゆえに行動を止めた。

当時、作っていた歌の詞も、途中で筆が止まっていた。
「優しさとは?」「自分がエンターテイナーとしてできることは何か?」
彼が私たちには見せずに抱えていた苦悩が赤裸々に語られた。

そして、彼の身には予期せぬ異変が起こる。
重度のヘルニアによる術後に、ステージに立って踊った。さらには生死をさまよう「脳腫瘍」の大手術。
どちらも公表せずに彼は「アイドル」を貫いた。

しかし、後遺症により転倒し骨折。
そこで初めて、今ままでの傷病が公になり、私たちは今まで彼に起きたことを知らされた。

そして、東日本大震災から10年経ち、コロナ禍でエンターテインメントを止められた今、彼は今一度自分と向き合っていた。
大病やメンバーの脱退などを乗り越えた彼は、10年前に書けなかったあの詩を元に、一曲の歌を作り上げてこの番組は幕を閉じた。


かねてより彼のファンである私だが、彼の苦悩は知る由もなかった。

今思えば、開頭手術後の歌番組では常におしゃれな帽子をかぶっていたが、まさかその下に手術痕があるとは思わない。

術後のライブにも行ったが、いつもと変わらないキレキレのダンスで、ファンサービスをするために会場を走り回っていた。

そんな彼の「アイドル」の姿から、私たちファンですら、彼の「優しさ」を強く感じている。

にもかかわらず、彼は「偽善者」という言葉に囚われていたなんて。
あなたほど優しい人を見たことがありませんが……と私たちは思うのだ。


▶2:「人間n周目」の私

番組を見終わった後、いろんなことを思った。

私は「偽善者」と言われたことはないし、あったとしても記憶に残っていないレベル。
その言葉に囚われるという感情自体が、優しい気持ちがないと感じないかと。もはや「優しい」の裏付けなんじゃないのか。

だからこそ、「優しさ」は時に「弱さ」になるなんて言うんだろう。
繊細で優しい人こそ、傷付きやすいような気がする。

似たようなところで、人から言われるといえば、私はよく「人間何周目?」的なことを言われる。
要領が良くて達観している印象を持たれるが、私自身は人生は大変過ぎ!と感じて生きている。

「人間何周目?」の原因の一つに、私の人付き合いが挙げられると思う。

私は人間愛好家を名乗っているだけあって、人を嫌いになることがほとんどない。それに人に怒ることもない。だから友達と喧嘩したこともほぼない。
でも安田章大氏のように、人から「優しい」と言われることはあまり無い。

私は根っからの分析好きだし、かなり理屈っぽいと思う。
だから感情があまり見えなくて、むしろ「人間っぽくない」

みんなの前でプンプン怒っちゃったり、恋は盲目になっちゃったりしている人を見て、たまに羨ましいと思うことがある。

私は映画なんか見てても、「ここが自分の体験とこう重なるからこうだ」と思って感動するし、「誰々は○○の傾向にある、だから私は好き」と好みも分析して感じてしまう。
だから「優しさ」という感情が人より見えないんだろう。

その点、安田章大氏は「人間っぽい」
彼はめちゃくちゃ考えて行動している「思考型」でもあると思うが、感情が豊かだからめっちゃ生きている感じがする。

「人間っぽい」と「生きている」を感じる。

と、そこまで思考を巡らせたところで、いやいや、「感情>思考」「本能>理性」が人間みたいになっているけど、「考える」ことこそ人間という動物の最たる特徴でしょう。「考える」からこそ人間なのだよ。

つまり結局、どっちも「人間らしさ」じゃないか。

堂々巡りというか答えがない。
こんなこと考えている時点で、自分は完全に理屈野郎で確定だなということだけ分かった。

そこで一つ、気づいたことがある。

そんな人間n周したと思われる私が、論理的に考える前に感動した体験こそ、「超生きている」体験なのではないか?

そこに「優しさとは?」「生きるとは?」の秘密があるんじゃないかと思うのだ。


▶3:私は何に感動するのか

人間n周目の私が、思いがけず感情先行した出来事。
パッと思いつくものが二つある。

一つ目は、ストラディバリウスの生演奏を聴いたときである。

(ストラディバリウスの超分かりやすい素晴らしい記事↓↓を発見したので、説明は割愛します)

ひょんなことから、ストラディバリウスを生で聴ける機会があったのだが、その時は気がついたら目から涙が伝っていたのである。

悲しいとか切ないとか、そういった感情を考える間もなく、「あれ?なんで涙が出ているんだ?」という漫画みたいな状況に、自分でも驚いた。

しかも、音楽ホールでもなく、ただの施設で折りたたみ椅子に座って聴くというような、音楽的にはあまりよろしくない環境。なのに、今まで味わったことのない謎の感情に襲われた。

月並みな言葉だが、まさに心が洗われるのような感覚であった。


二つ目は、ホームステイでお世話になった方と手をつないだときである。

オセアニアへホームステイ留学をした際に、ホームステイ先のホストマザーに連れられて教会に行く機会が何度かあった。

私自身は宗教文化に関心はあるものの無宗教であるので、あまり詳しく分からないのだが、その教会の宗派は古典的なキリスト教の宗派ではなかったため、大きい今時なホールに集まってライブをすることがあった。(歌詞は聖書の内容であったが、曲調はかなりポップス系だった)

そこで、ホストマザーと、ホストマザーの友達とその子供と、四人で手をつないで円になった時、これまた自然と涙が出た。


この二つの体験で得た感動の正体を考えてみると、どちらも”何かを超えた”「人の温かさ」と「人の歴史」を感じたからだと思う。

ストラディバリウスは、弦楽器製作の巨匠たちが、拘り抜いてつくった楽器であり、その巨匠たちの熱意が時を超えて私の耳に飛び込んでくる。
それまでこの楽器を聴いて心動かされた人々の思い出も乗せている。軽く時間旅行したような感覚だろう。

ホームステイの方については、私の祖母に年齢の近いイギリス系のホストマザーと、その一回り下のチャイニーズ系の友達、成人のお子さんは知的障害を持っていた。
私はジャパニーズ系の高校生でセクシュアルマイノリティだ。

ルーツも年齢も個性もバラバラなのに、今ここで手をつなぎあっている事実に心が揺さぶられたのではないかと思う。

今ここに存在するどれもに何らかの「始まり」があって、その歴史には互いの関わり合いがあり、そこからまた何かが始まっている。
楽器に多くの人の「生」を感じる、手をつないで生きている鼓動を感じる。

つまり「生きる」ということ、それ自体を感じられたときに感動する。

最近オタクがよく言う「生きているだけで偉い」「生きていることが尊い」がまさにその通りなのである。

「生きる」ことの輝きにはとんでもないパワーがあるのだ!!

そんな当たり前な結論が出た。


▶まとめ

まっさらな心でただただ「生きる」を感じた時、「ただ生きていてくれてありがとう」と”生きること”自体に感動する。
ただ生きていることに感動して感謝できる。

それが、「優しさ」だと私は思う。

「人のために何かしたい」という原動力では「偽善」と捉えられるかもしれない。
でも、本当の「優しさ」があれば、そんなことも乗り越えられるくらいのパワーで生きられる気がする。彼が乗り越えたように。

「優しさ」は時に「弱さ」といったがそれは違う。なぜなら、生きているだけで”強い”からだ。

そんなことを考えたとき、私の頭の中に「LIFE IS」の写真が浮かび上がった。

その写真のどれもが”鼓動”を感じさせる。

この写真集が、彼が、伝えたい「何か」が、なんとなく噛み砕けたような気がした。


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