環境を変えてみること
『移住』。コロナ前から田舎回帰のようなテーマでずっと言われていたが、一気に浸透した。
実家がある。前に住んだことがある。知り合いがいる。等々、何かしら関係性のある場所に移り住むことがほとんどなんだろう。と、思っていたが、縁もゆかりもない人が移住してきていてビックリしている。(どうでもいいけど、『縁もゆかり』も同じ意味ちゃうんか…。)
当然、家族の場合、夫婦のどちらかが函館出身、という場合が圧倒的に多い。他には、兄弟が住んでいて、大学の時住んでいた、という人もいた。少し前まではほとんどがそのパターンだったのだが、最近、移住先を探しに一時滞在をいろんな場所で繰り返した結果、函館に住むことに決めました。というものだ。そんな選ばれ方をすることもあるんだなと、単純に感心してしまった。それだけその人達の心に刺さるなにかを秘めた街だということなんだろう。
確かに明治、大正、昭和初期の建物が数多く残り、海、山、路面電車があり、トンボロ地形という独特な形がさらに雰囲気を醸し出すのだろう。トンボロ地形については、下記を参照。
ただ、「具体的にココが良かったから、移住するのだ」という明確な答えを持っている人は少ないだろう。どっちかというと「なんかええな〜」と思って、よくよく考えてみたら上記のようなこともあるしな、という後付けに近いのが本当のところかもしれない。結局はわからない。以前に知人が、瀬戸内海に定期的に行きたくなる、という話をしていた。単純に気候も落ち着いているし、いいところのイメージですよね〜、と話をしていたが、その人も結局「なんかええな〜」ということで、『遺伝子レベルで気に入っているから行くんだ』と言っていた。人を好きになるのに理由がない、ということと似ているのかもしれない、というか、そもそも何かを好きになったことに対して、根拠を出せる人間なんていないんだろう。という結論に至った。合理性を求めるが、決して合理的になれないのと同じかもしれない。
ただ、ある程度のそう思わせるものを大事にして、それを活用しているという事実は必要なんだと思う。古い建物を活用したり、街をきれいにしたり、歩いて楽しいを感じられる、などなど。
実際に、函館山の麓周辺を『西部地区』という昔からの愛称で呼んでいるが、このエリアを離れるとどこにでもある街がほとんどだ。なので、移住者は西部地区を好む傾向にある。やはり、古い街並や自然があることで『他と違うこと』を選択する。世の中の流れも新築の家を建てることがステータスだった時代が終わり、ストック社会にも少しずつ向かい、所有から共有へ移行している。その流れに乗る人たちが入ってきているのだろう。そういう人たちとの交流はまた面白い。
しかし、この流れというのは、函館市民にも起こっているのだろうか。函館から外に違った環境を求めていくということをあまり聞かない。相変わらず人口の減少は激しいが、自然減と若者の進学と就職という構図は変わっていない気がする。相変わらず、大型造成地に新築を求めてたり、皆が言う便利なエリアに元々の函館の人はこだわっている。ここの便利なエリアはユニクロや大型スーパーがあるが、基本的に車を使わないと成り立たないエリアのことだが、車道も広く商業施設があることが『便利なエリア』という合理性を欠いた理由に帰結し、集まっている。
函館以外からのほうが、よっぽど西部地区に興味があり、元々の函館の人はやはり興味がないようだ。少しは、流れがあるかなとも思ったが、今足元で起こっていることも多分知らない。まあ、こっちも向こうの起こっていることは知らんけど。
なんせずっと棲み分けが続いている状態で、イギリス人はビッグベンに行かないと一緒で、一番安価に変化を得られて環境を変えられるがそうはしないもんなんだ。
『幸せをお金で買う5つの授業』という本でも書いていたが、カナダが住宅への補助金をやめて、街の施設の充実に予算を当てたところ、市民の満足度が上がったとある。住宅を新築するとその時は満足するが、結局そのあとはそのマックスに上がった満足度は低下の一途を辿るのだろう。
おもろいことを考えて、実行していくことが一番ええな。俺は。人それぞれやし。
知らんけど。