「ポルノグラフィの何がわるいのか」の何がわるいのか

序 このnoteの趣旨

 このノートでは、ナンバユウキさんの「ポルノグラフィの何がわるいのか」という論考(以下「ナンバ論考」と呼びます。)を受けて、①ナンバ論考の内容の紹介、②ナンバ論考の有用性の検討、③ナンバ論考に関する批判、以上3点を書いていきます。


1 ①この論考の内容の紹介


【はじめに】

ナンバ論考では、はじめに、ナンバ論考の目的が紹介されています。
私の解釈では、

・性的な表現が巷で色々揉めてるので、紛争の調停に役立ちたい
・そのために、よりよい議論に役立つような、論点の整理をやってみよう

というのが、ナンバ論考の目的です。


【第一章】

 第一章は、「ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか」というタイトルです(7頁~)。
 私の解釈では、この章の目的は以下のとおりです。

・ポルノグラフィの「わるさ」を整理しよう
・ポルノグラフィを「わるい」と評価するための理屈の流れ、すなわち「わるさフロー」を提示しよう

 そして、私の解釈では、「わるさフロー」の内容は以下のとおりのものです。

(1)内容がわるい
・①描かれた内容それ自体が「わるい」場合と、②表現者の倫理的態度が「わるい」場合がある
・それらがどんな場合に「わるい」と言えるのか、「わるい」としてどの程度の「わるさ」なのかは不明
・当該ポルノグラフィの「よさ」とどんなバランス関係になるのかも不明

(2)行為がわるい
・ポルノグラフィを用いてする何らかの行為それ自体が「わるい」場合がある
・どんな場合に「わるい」と言えるのか、「わるい」として、どの程度の「わるさ」なのかは不明
・当該ポルノグラフィの「よさ」とどんなバランス関係になるのかも不明

(3)影響がわるい
・“ポルノグラフィの内容や、それを用いてする何らかの行為”によってもたらされる社会的状況が「わるい」場合がある
・どんな場合に「わるい」と言えるのか、「わるい」として、どの程度の「わるさ」なのかは不明であり、どういった場合に「もたらされる」と評されるのかも不明
・当該ポルノグラフィの「よさ」とどんなバランス関係になるのかも不明

(4)事態がわるい
・“ポルノグラフィの内容や、それを用いてする何らかの行為や、それらによってもたらされる社会的状況”によってもたらされる出来事が「わるい」場合がある
・どんな場合に「わるい」と言えるのか、「わるい」として、どの程度の「わるさ」なのかは不明であり、どういった場合に「もたらされる」と評されるのかも不明
・当該ポルノグラフィの「よさ」とどんなバランス関係になるのかも不明


【第二章】

 第二章は、「 キャラクタの画像のわるさはなぜ語りがたいか」というタイトルです(19頁~)。
 私の解釈では、この章の主な内容は以下のとおりです。

・キャラクタの画像について、「わるさフロー」を用いるとき、特有の難しさがある
・しばしば製作者と提示者が異なるため、「わるさフロー」(1)②について誰の倫理的態度を問題にするのかや、「わるさフロー」(2)について誰の行為を問題にするのかを考えるときに、留意が必要
・キャラクタ自体に背景がある場合、その背景が「わるさのフロー」に影響し得る。ただ、そのキャラクタ自体の背景について、どんな風に考慮すればいいかは不明


【第三章】

 第三章は、「 ポルノグラフィが影響するなら、誰に何ができるのか」というタイトルです(33頁~)。
 私の解釈では、この章の主な内容は以下のとおりです。

・上記「わるさフロー」(4)の「わるい事態」の一つと考えられる、「鑑賞者の信念にわるい影響が与えられる場合」を想定して、誰に何ができるか考える
・誰がこの「鑑賞者の信念にわるい影響が与えられる場合」についての倫理的責任を引き受けるかとういと、製作者側と鑑賞者側が考えられる。どのような分担になるのか不明であるが、鑑賞者が特有な鑑賞をする場合には、鑑賞者の責任が大きいと考えられる。
・いずれにしても、やれることはある。例えば、製作者側は、鑑賞者の信念に与える影響についてきちんと配慮して制作を行うことが考えられる。鑑賞者側は、きちんと知識や信念を持つよう心掛けることが考えられる。


2 ②ナンバ論考の有用性の検討


 ナンバ論考の目的、すなわち、紛争の調停のための論点整理は、意義があるものと考えています。
 ただし、現実はなかなかに厳しいとも考えていて、ナンバ論考が実際に役立つ場面を想像すると、「ネット論客が、反転可能性チェックなんかをする際の思考整理」くらいではないかと思います。

 というのも、上記「わるさフロー」の内容を見ていただければわかるとおり、不明な点があまりに多く、ポルノグラフィの「わるさ」の立論がとても大変です。まあ、上記「わるさフロー」に則って、何かしら「わるい」と言うことはできるんですが、ただ、「だから何?そのわるさがあると、どうなるの?そう言えるのはなぜ?」と詰められた時に、論理的な答えを準備する手助けはしてくれません。
 そして、現実のポルノグラフィを批判したい人たちにとってみれば、この手の緻密な議論も、「なぜ?」という問いに答えを準備することも、特に必要性を感じないものだと考えられます。良くも悪くもですが、そうした論理を詰める作業に労力を割かずとも、政治的な正しさを手にすることはできてしまいます。

 そのため、上記「わるさフロー」にまつわる様々な不明点について何らかの筋道を立てたり、そうした作業を通じて論理を詰める作業に労力を割く必要があることを共有したりできなければ、ナンバ論考が目的のとおりに有効に機能することは期待できないと考えています。

3 ③ナンバ論考に関する批判

 ナンバ論考を読んで真っ先に浮かんだ感想は、「この論文事態の”発語内行為”を糺したい」というものでした。

 「発語内行為」とは、ある発語(発信)によって成立する特定の行為のことをいいます。つまりは、「ナンバ論考を公表するという行為」がもたらす影響を問題視しています。

 まず問題なのは、タイトルです。「ポルノグラフィの何がわるいのか」というものですが、「何がわるいのか」という問立ては、「わるい」こと自体は前提にできるのだということを暗に示していると言えます。
 「同性婚はなぜわるいのか」「ジェンダー平等の何がわるいのか」といった問立てを想像してもらえると、こうした問立ての意味合いを理解いただけるのではないかと思います。

 次に、表紙のイラストです。「Porno」という単語に、円と斜線を合わせ、「Porno禁止」のマークであるとイメージさせるデザインになっています。ここでも、「ポルノグラフィは禁止されるようなわるいもの」という規範が自然に存在していることを暗に示していると言えます。

 そして、「ポルノグラフィ」という名付けと、その範囲設定です。「ポルノグラフィ」は、「性的興奮を起こさせることを目的としたエロチックな行為を(文章または絵などで)表現したもの」などと定義されますが、「感動ポルノ」「愛国ポルノ」といった揶揄の言葉に用いられているように、マイナスのイメージが強い単語です。
 ナンバ論考では、「何らかの意味で性的とみなされる表現」を論考の対象としていますが、この論考の対象を指し示すための言葉として、「ポルノグラフィ」という言葉を当てるのは、必然性がないですし、論考の対象が「わるい」ものであることは前提にできるということを、ここでも暗に示していると言えます。
 言い換えれば、かなり広範に及ぶと考えられる「何らかの意味で性的とみなされる表現」について、検討の対象というよりも糾弾の対象として、言わば被告人席に座らせるムーブだと評価することができます。

 さらに、現在の「社会的状況」に思いを致すと、「何らかの意味で性的とみなされる表現」の数々が、とても気軽に、「セクハラ」「性差別」「性搾取」といった、非常に強い言葉による批判を受けています。これらは、ナンバ論考の出発点である、性的な表現に関する紛争の起点であると考えられます。
 言い換えれば、「何らかの意味で性的とみなされる表現」は、論理的検討を待たずに、被告人席に座らされているというのが、現在の社会的状況です。以下の正人ラムネさんのツイートは、こうした社会的状況を的確に指摘しています。

 このような社会的状況下で、真に「紛争の調停に役立つ」ために必要なのは、「何らかの意味で性的とみなされる表現」を被告人席に押し込めるムーブに手を貸すことでは決してないはずです。むしろ、そうした構造が存在することを理解した上で、「何らかの意味で性的とみなされる表現」を被告人席から解放し、調停の一当事者の地位に置くよう努めることでしょう。
 これをやらなければ、論理的検討を疎かにしつつも、「何らかの意味で性的とみなされる表現」を一方的に糾弾を受ける立場に置くことができてしまいます。ナンバ論考が志向しているような、そして私が志向しているような、建設的な議論は遠ざかるばかりでしょう。
 「何がわるいのか」を考えてみせる前に、「わるいのかどうか」「わるいと言えるとしても、程度問題に過ぎず、世の中のあらゆる営為のわるさとの差はないのではないか」といった点の問題意識が共有できるよう、十分な配慮が必要ではないでしょうか。

 以上が、ナンバ論考に対する私の批判です。

 最後になりましたが、紛争の調停のための論点整理を行おうというナンバユウキさんの意思は、とても尊いものだと思います。その尊い意思に従い、多大な労力のもと論考を仕上げたその営為に、敬意を表します。

2021.4.1 ぼん


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