悪しき青識論法の終焉~そして建設的な対話へ~
先日、ネット論客として名高い青識亜論氏が、『フェミ炎上にトドメを刺す「銀の弾丸」』という記事を公開した。
キャッチーなタイトルそのままの勢いで、力のこもった記事が書かれており、「フェミ」に反発心を抱く多くの同志の支持を得られたようだ。
ただ、「論」として見たとき、この記事は、多くの瑕疵を抱えるものと言わざるを得ない。
この点は、既にこちらのツイートから始まるスレッドで、網羅的に指摘をしている。
ここで指摘した点は、いずれも重要な瑕疵だと考えているが、今回は、中でも特に重要と思われる、「第2の弾丸」に含まれる「挙証責任」に関する瑕疵について、詳しく解説する。
この瑕疵は、青識亜論氏の論法にしばしば現れるものであり、同氏の「議論の負けにくさ」を演出するのに役立っている一方で、公正で建設的な対話の道を遠ざけてしまっているものでもある。
この論法の瑕疵が多くの方に共有され、悪しき青識論法が終焉することで、より公正で建設的な対話の道が開けることを願って、この記事をまとめする。
1 「第2の弾丸」において用いられた論法
「第2の弾丸」は、国分寺青年会議所(JC)が計画した公開討論会のチラシが「女性像を目を引きつけるための『アイキャッチ』として利用した」などの批判を受けた件を題材に、「女性の性的価値をアイキャッチとして用いること」を「無罪」と断じるものである。
青識亜論氏は、以下のとおりの理屈で、「無罪」という結論を導いている。
なにかが有罪(悪・不正義)であると主張するのであれば、告発側に挙証責任があるのは明らかだ。
アイキャッチを有罪とするあらゆる論拠を洗いざらい検討してもなお、有罪であると客観的に証明することができないのだから、私たちは次のように結論するしかない。
判決:無罪
この理屈は、訴訟における挙証責任の考え方に通底するものであり、一見正しいもののように思える。
①有罪を主張する側に挙証責任がある
②有罪であることを証明できなければ無罪
いずれも、疑う余地のなく正当な命題である。
しかし、これらの命題を平場の議論に持ち込もうとすると、途端に不公正な代物になってしまう。
青識論法の瑕疵は、この不公正さにある。この点を、以下説明する。
2 訴訟における挙証責任について
ここで、訴訟における挙証責任について簡単に説明する。
訴訟における挙証責任の考え方を理解しておくことで、これを平場の議論に持ち込んだ場合の弊害がわかりやすくなる。
訴訟における挙証責任は、「ある事実の存否が確定できない場合に、当事者の一方に帰せられる不利益」などと説明される。
「審理したけれどよくわからない」という場合、一方当事者(民事訴訟においては、その事実に基づく法律の適用を主張する側。刑事訴訟においては有罪を主張する検察官側。)に不利益な判決が下されることになる。
何故、そのような不利益を一方当事者に課すことが正当化されるのか。
その理由として、
ア:終局的結論を出さねばならない場面であること
イ:反対の結論となった場合、他方当事者に、法的義務や刑罰といった強制力を伴う負担を強いることになること
ウ:裁判所が公正な第三者の立場で審理判断を行うことで客観性を担保していること
以上の3点が挙げられる。
逆に言えば、これらの理由を欠く場合、一方当事者に挙証責任を負わせる正当性は乏しいものとなる。
また、挙証責任の考え方を理解する上で必要な概念として、「挙証の程度」というものがある。
挙証とは、ある主張が確かなものであることを明らかにする作業であるが、この挙証は、0か100かの1bitのものではなく、程度の問題である。
「一応の可能性があることを示す程度の挙証」「一応確からしいことを示す程度の挙証」「合理的疑いを差し挟まない程度の挙証」など、挙証の程度には様々なものがある。
挙証責任を負う者に、どの程度の挙証を求めるかというのは、言わば政策的判断である。
司法の場においても、法的紛争を終局的に解決する「判決」に当たって求められる挙証の程度と、速やかに暫定的な判断を行うためになされる「決定」に当たって求められる挙証の程度は、異なるものである。
挙証の問題を考える場合は、「挙証の程度」について、常に頭の片隅に置いておく必要がある。
3 「フェミ」に挙証責任を負わせる正当性がないこと
さて、平場の議論、具体的には「第2の弾丸」に話を戻そう。
この青識亜論氏の記事は、終局的結論を出さねばならない場面で書かれたものではない(上記アには当たらない)。
また、この記事で弾劾しようとしている「フェミ」の主張は、「女性差別的な視線はあからさまに含まれてる」「ジェンダー平等に反する」といったものであるところ、これらの結論となった場合でも、法的義務や刑罰といった強制力を伴う負担が生じるわけではない(上記イには基本的には当たらない。ただし、後述のとおり、ここでなされる批判の強度によっては、相応の負担が生じることとなる。)。
そして何より、判断を行おうとしているのは、公正な第三者どころか、「フェミ」に弾丸を撃ち込みたい他方当事者である(上記ウに真っ向から反する)。
以上のとおり、一方当事者たる「フェミ」に挙証責任を負わせることを正当化できる理由は揃っていない。そのため、「第2の弾丸」において用いられている青識論法、すなわち「フェミ」に挙証責任を負わせる考え方には、到底正当性が認められない。
4 正当性なく挙証責任を負わせることの意味
正当性なく挙証責任を負わせる態度は、何を意味するか。
端的に言えば、公正で建設的な対話の放棄である。
想像してみてほしい。
あなたが、何らかの訴えかけを行おうとしている。
「●●という性的シコウを有する者を、偏見に基づき危険視してみせるのはおかしい」
「ポルノは多くの人々のQOLを高める素晴らしいものだ」
「●●というイベントを中止せよという意見には反対だ」
そんなとき、あなたの意見に反対する人がひょいと現れ、「あなたに挙証責任がある。証明ができない場合、あなたの主張は無視されるべきものとみなす。ちなみに、証明ができたかどうかは私が決める。さあ証明をどうぞ。」などと言ってきたらどうするか。
説明を試みても、「私は証明ができていないと判断する。なので、あなたの主張は無視されるべきものだ。証明終わり。」などと言ってきたらどうするか。
議論自体が大好きであるなど、何か特別の事情がなければ、相手にするのを止めるだろう。
「証明ができた!あいつの主張は打ち砕かれた!」とはしゃぐ側と、そういった者達を相手にしない側。
簡単に分断が生まれ、公正で建設的な議論の道は遠ざかることとなる。
5 青識氏からの反論への応答
青識亜論氏から、反論めいたコメントがあったため、一応触れておく。
一見、意味不明な言明だが、最善の相により解釈すると、
・「宇宙人が裏でバイデンを操ってる」といった「トンデモ」な主張をきちんと排斥するために、挙証責任の考え方が必要
・だから、挙証責任の考え方は正当
といった主張を試みているものと思われる。
しかし、「宇宙人が裏でバイデンを操ってる」という主張については、大多数の人が「トンデモ」であると判断可能と思われるところ、その大多数の人の間では、そもそも認識が一致しているため、論点が存在しない。
論点が存在しなければ、結論は決まっており、そこに挙証責任もへちまもない。
では、仮に「宇宙人が裏でバイデンを操ってる」という主張を本気で行っている人がいたとすればどうか。
丁寧に議論をするのも良いし、最初から、あるいは議論の途中で「なるほど大変そうですね。」などと応答して話を終えるのも良い。
それで特段困ることもない。
そこで相手に挙証責任を負わせようとして、「では証明してみてください。証明できなければあなたの主張は無視されるべきものとみなします。証明できたかどうかは私が決めます。」などと言ってみたところで、何が解決するわけでもない。
以上のように、「トンデモ」な主張を例として持ち出してみても、相手方に挙証責任を負わせようとする論法の正当性は、何ら基礎づけられない。
6 挙証の程度と主張内容の関係
最後に、主張に伴う挙証の程度について、あるべき考え方を述べる。
相手方に一方的に挙証責任を負わせようとする態度は、避けるべき不公正なものであるが、さりとて、何らか主張をするに当たって、挙証が一切必要ないということではない。
「挙証ができてないと私が判断した。故にあなたの主張は無視されるべきだ。」などと言ってみたところで、相手にされず分断を生むのがオチであるが、そうではなく、「そのような主張をするにはそれなりの挙証が必要なのではないか。」「あなたの挙証には、このような点で疑義がある。」といった指摘を行い、更なる挙証を求めることには、一定の意義がある。
では、どのような場合に、挙証を求めることに意義があるといえるか。
この点は、上記「2 訴訟における挙証責任について」にて、挙証責任の考え方を用いることを正当化する理由として挙げた、次の3点が参考になる。
ア:終局的結論を出さねばならない場面であること
イ:反対の結論となった場合、他方当事者に、法的義務や刑罰といった強制力を伴う負担を強いることになること
ウ:裁判所が公正な第三者の立場で審理判断を行うことで客観性を担保していること
以上の3点に類似する状況がある場合、より高い程度の挙証がなされるべきと言える。
平場の議論の場面では、特に「イ」の点が問題となりやすい。
例えば、ある広告が批判されている場面でも、その批判のあり方は様々である。
「セクハラ!社会的に許されない加害表現!」
「これは女性差別。広告主の見識を疑う。」
「こういう観点から問題があるのではないかと思う。」
それぞれ、そういった言明が公になされることによる社会的影響は異なる。より厳しい意見が公言されれば、意見を受けた側の社会的名誉等に、より大きなリスクが生じる。
そのため、より厳しい意見については、より高い程度の挙証がなされるべきといえる。
また、言明の内容のみならず、誰がどのような場で言ったか、という点も、意見を受けた側の社会的名誉等に生じるリスクの大小にかかわる。
例えば、一定の肩書を持つ者がメディアを通じて意見発信する場合と、匿名の一般市民がSNSで発信する場合とでは、意見を受けた側の社会的名誉等に生じるリスクが異なる。そのため、前者は後者と比べ、より高い程度の挙証がなされるべきといえる。
このように、ある意見について行われるべき挙証の程度は、一定ではない。
言明の内容や、言明者の立場・媒体等によって変わるものである。
何らか意見を行うに当たっても、あるいは他人の意見に対して疑義を述べる場合にも、この挙証の「程度」の考え方は、常に意識をしていただきたい。
7 終わりに
以上、多少脱線しながら、悪しき青識論法、すなわち異見者側に挙証責任を負わせる考え方には大きな瑕疵があることを示した。
同じ意見の者同士ではしゃぐ愉しさは魅力的ではある。けれども、そうした愉しさを対話や議論の目的と考えるのでなければ、この悪しき青識論法には別れを告げ、公正で建設的な対話の道を歩んでいただきたい。
2021.7.12 ぼん