おーい!落語の神様ッ 第四話
せっかく禁酒を始めたばかりなのに台無しになるといけないので、咲太は爺さんと一杯やりたい気持ちを飲み込んだ。「野暮用がある」と言うと「そうかい」と意外にもあっさり解散した。稽古もしたかったし、日がある内に帰ってやりたいこともあったので好都合だったが、やや拍子抜けだった。
歩き稽古の合間、どうしてあんな風に爺さんに食ってかかってしまったのだろうかと思い返していた。咲太自身も心のどこかで落語は男のもので、女には落語は無理なんじゃないかと思っているのを自分でもわかっていたし、常々気にしていたのも一つの理由だ。もう一つは楽屋での境遇だ。東西併せて数十人、東京に約半分の二十数人しかいない女流の落語家はまだまだ珍しく、どこか箸休め感覚で楽しむ客も沢山いる。芸人同士でも、落語家であって落語家ではないという差別が拭い切れず、実力も無いのに客が入ってちやほやされるハンパもんとレッテルを貼る者は幾らもいた。
そんな女流落語家に咲太は勝手にシンパシーを感じていたのだった。そもそも古典落語は男が喋ることを前提に作られているのだから女流落語家には最初からハンデがある。昔も今も女流は古典落語をうまく作り変えたり、性別を意識させないように演ったり、逆に女を武器にしたりと工夫を凝らして、落語と闘ってきた。昨今急激に女流落語家の人数が増えているし、客の入りも良いけれど、まだまだその闘いは始まったばかりだ。
あれこれ考えだすと止まらなくなってしまう。最終的にはやっぱり男だろうが女だろうが、落語が面白いやつは面白いという考えに至るが、咲太は自分の思う落語の面白さや、時代や価値観など色々が頭の中でまぜこぜになって、仕舞いにはわけがわからなくなるのであった。
そして咲太は「落語の未来がどうあるべきか」よりも「自分の今がどうあるべきか」を先に考えなければいけないと気付く。何せ、電気代も払えないありさまなのだから。
帰宅した咲太はすぐに掃除を始めた。掃き掃除をして散らかっているものを整理整頓し、要らないものをどんどん捨てた。最後に箪笥からYシャツを引っ張り出して一張羅を身につけた。
「よしっ。部屋を片づけた。身だしなみを整えた。要らないものを捨てた。よし」
咲太は達成感に浸りながら自分の肩、部屋の中を見渡す。貧乏神が見当たらない。ネットの情報は本当だったのか。にんまりする咲太。せいせいした心持ちで洗面所で顔を洗おうとして鏡をみると肩に貧乏神が乗っていた。「ん? どうした?」みたいな顔でつぶらな瞳で見つめている。
「当分の間ご滞在なさるんでしょうかね」咲太が声をかけると、貧乏神は珍しく反応して大げさに腕組みをして考える仕草をした。咲太は馬鹿馬鹿しくなっていつものスエットに着替え、洗濯物をまとめながら、貧乏神の腕組みの仕草が元々の飼い主の『いつきや』の大将に似ていたなと苦笑した。
咲太は少し離れたところにあるコインランドリーに行き、洗濯が終わるまでの間、行きに見つけた公園で稽古しようと思いついた。来てみると、小さな女の子を連れた夫婦がいた。あっと思って引き返そうとする咲太を夫の方が呼び止めた。
「咲太じゃないか」
「とんび兄さん、おかみさん、ご無沙汰してます」
とんびと会うのはとんびのラジオ番組に咲太がゲスト出演した三年前以来だった。咲太と同じく「師匠の七光で売れてる芸人」と揶揄される者同士だからか、とんびは咲太に対して優しく接する数少ない先輩の一人だった。つい肩を見てしまう。
「咲太ん家ってこの辺だっけ?」
「ちょっと歩くんすけど、徒歩圏内なんです。洗濯機が壊れちゃってそこのコインランドリーまで」
さすがに電気が止まったとは言えない。
「兄さんは、この辺でしたっけ?」
「白っぽいマンションが見えるだろ、あすこよ」
とんびが指さした方角は咲太とは同じ地域ではあったが、あまり行かない場所だった。これまでとんびやその家族とは一度も会った事がなかった。生活圏外だとそんなもんかなと思う。それにしても立派なタワーマンションだった。やはり売れてる芸人は違う。
「咲太さん、たまにはうちに顔出してよ。ほら、リサ、挨拶は?」
父親が話している相手に興味を持ったのか、リサと呼ばれたとんびの娘が咲太に近寄ってきた。奥さんがついて来て面倒をみる。二人の肩も確認する。
「リサちゃん、こんにちは」咲太が満面の笑顔で挨拶すると、咲太の貧乏神もにこにことリサに会釈した。
「こんにちは。可愛いね」娘が挨拶もそこそこに手を伸ばしながら咲太の肩に向かって言う。咲太は「まさか貧乏神が見えてる?」とぎょっとする。
「ほら、パパたち、大事な話をしてるからバイバイして、あっちで遊ぼうね」
母親がまた遊具の方へ連れて行った。娘は振り返りながら小さな手を一生懸命振って「バイバイ」と言っている。明らかに貧乏神に向かってだ。貧乏神も手を振り返しているから咲太は落ち着かない。母親が娘をブランコの方へ連れて行こうとすると娘は滑り台の方へ行きたがった。しかし母親は半ば強引にブランコの方へ連れていく。滑り台は芸人にとって鬼門であるから避けているのか。
「可愛いっすね」咲太が世辞でもヨイショでもなく本心で言った。
「可愛いんだよなぁ」
普通の芸人なら「セコなヨイショはやめろよ」と照れ隠しで悪態をつくところだが、とんびは目を細めて娘を見ながらそう言った。
「聞いてるだろ、俺があの番組を降りること」
「ええ、まあ、ちらっと噂だけですけど」
咲太が避けようと思っていた話題をとんび本人が切り出した。
とんびが番組を降板する理由はネットの悪評などではなく娘のためだった。
歩き方に違和感があり、しょっちゅう転ぶので医者に見せたら、筋肉が徐々に衰えていく難病だとわかったそうだ。病気の進行具合は医者にも予測がつかず、まだあんなに幼いのにいつどうなってもおかしくないらしい。だからとんびは娘との時間を選んだ。娘と一緒にいるために新しく入る仕事は全て断わっているそうだ。咲太はかける言葉が見つけられずにただ黙って聞いているだけだった。
「咲太、お前、金に困ってんだろ」
「兄さん、どうして」
「知ってるかって? おまえ、楽屋で評判だぞ。咲太を見たら気を付けろ。誰彼構わず金借りてその金をギャンブルで溶かしてるって」
「誰がそんなこと言ってるんすか」
楽屋の連中は口さがない。あることないこと言いふらす。
「俺、借金だらけだけど、芸人に借りたことないっすよ」
「だよな。芸人から借りたら何を言われるかわからねえ」
とんびはよたよたと歩く娘を見つめる。
「金、貸してやろうか」
とんびが咲太の方を見ずに言った。
咲太は言葉に詰まり、鼓動も激しくなった。おそらくこのとんびの言いぐさは咲太の百万からある借金を帳消しに出来るほどの金額を貸すという意味だ。喉から手が出るほどとよく言うが、今の咲太はまさに出ている状況だった。と思ったら横で貧乏神が手を伸ばしているのだった。
「勘弁してくださいよ」
咲太はとんびの申し出を笑って弾き飛ばした。
「俺が本気出したら百万や二百万なんてすぐなんすから」
「でも、お前、真打の披露目の金はどうすんだ」
「まあ、なんとかなりますよ」
「百万、二百万の借金抱えて、数百万の金、どうやって用立てんだよ」
「そんなの屁でもねえっすよ。なんなら兄さんの今後の金も工面しますよ」
屁と言ってあの爺さんを思い出す。
「借りときゃいいのに。強がりやがって」
とんびが咲太をきっと睨む。咲太も睨み返す。まるで落語の『睨み返し』さながらだ。落語の方は借金取りを追い返す為の「睨み」だから全く逆の状況なのだが。
「よし、お前の了見はわかった。計画性もなんもねえけど、そういうの嫌いじゃねえから。じゃあ俺の仕事に来い。今受けてる最後の仕事によ」
「兄さん、悪いっすね。気ぃ使わせちまって。仕事なら受けます」
「受けますってまだ日にちも時間も言ってねえのに」
「大丈夫です。仕事、なんもねえんで」
「大丈夫、じゃねえだろ。よくそれでさっきみてえな事が言えるな」と言ってとんびが心底可笑しそうに笑った。それを見て離れたところにいる妻も娘も釣られて笑った。収入がなくなり、これから娘の治療費がかかるというのに、とんびの肩には、なぜか貧乏神はいなかった。
洗濯物を抱えて帰路につく咲太は、小さな神社が目に入ってお参りした。子安稲荷神社と書かれていたからだ。長い間祈った。隣で貧乏神も真剣に祈っている。「よし」と言って顔を上げた咲太はすぐに溜息をつく。
「やっぱ借りときゃ良かったかな」
情けない声を出す咲太の横でうんうんと頷く貧乏神。
「あれじゃまるで『強情灸』じゃねえか」また大きなため息をつく。
落語の『強情灸』は、灸が熱いという相手に対して「灸なんて熱いわけがねえ」とひたすら強情を張る男の噺だ。釜茹でにされた石川五右衛門や火あぶりにされた八百屋お七なんかを引き合いに出して、それに比べりゃぬるま湯だとうそぶくが、もぐさの山を腕に乗せて火をつける。男の口とは裏腹なやせ我慢の様子が滑稽なバカバカしい落語だ。
さっきの咲太はまさに滑稽なやせ我慢を地でいったのだった。
「それにしてもどうしてとんび兄ぃの貧乏神はいなくなったんだ」
貧乏神に話しかけたが答えはない。相変わらずにこにこしている。
「もしかしたら見えないだけで近くに死神がいたのか。貧乏神と死神は仲が悪いかなんかで寄り付かないとか……」
「あんちゃん、縁起でもねえこたァ考えねえほうがいい。せっかくのお稲荷さんのご利益もなくなっちまう」
「師匠! いつも脅かさないでくださいよ」
いつの間にかあの爺さんが現れて口を出した。ちょくちょく現れるこの爺さん、ひょっとして家が近いのかもしれない。とんびと逆できっと生活圏が一緒なのだ。
「あの後、昼間っからやっつけたんすか」咲太が酒を飲む所作をした。
酒の臭いをぷんぷんさせた爺さんは「ふん」と笑って歩き出した。行先はここのところ咲太が熱心に稽古に励んでいる高台にある神社の境内だった。見おろすとちょうど電車が到着したところで人々がホームに吐きだされた。夕方前の涼風が緑を揺らす。
「師匠、ちょっとお聞きしたいんすけど」
「なんだい」
爺さんは賽銭箱に手を突っ込みながら面倒臭そうに答えた。
「さっき夏風亭とんびって先輩に会ったんすけど、一週間前にテレビに出てたその先輩を見た時は確かに貧乏神が憑いてたんすよ。しかもちょっと大き目のやつが。それが、今日会ったら貧乏神がいなかったんすよ。どうしてです?」
賽銭箱から手を抜こうとして難儀しているので、咲太は抜くのを手伝った。
「貧乏神はあるとき急にいなくなっちまうのよ。どうしてかはわからねえ」
「そうすか」
咲太が肩を落とすので貧乏神がバランスを崩して落ちそうになって慌てた。
「おおぅ、うちの前、黙って通るやつがあるかぃ。寄ってけぃ、こんちくしょう。ここんとこ鼻の頭見せなかったじゃねえか。どこへもぐってたんだょ」
爺さんが落語を始めた。これは。
「おれか、おれは峯の灸を据えに行ってたんだょ」
強情灸。まさか本気にされるとは思わなくて、威勢よくいっぺんに背中に三十二個の灸を据えろと灸師に言ったら本当に据えられて我慢をする男。若い女性客もいたのでなんとか格好つけた話を聞かされたもう一人の男が、それっぱかりの灸で熱がってちゃ江戸っ子がすたるとばかりに山盛りのもぐさを腕に乗せて火をつける。爺さんの仕草、表情、声に魅せられて、咲太はその場にいるかのような錯覚に陥った。
「こんな落語が演りてえ」
そう思って真剣に聴き入る咲太。隣で貧乏神も落語を聴きながら「熱っ」みたいな顔をしている。
つづく