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おーい!落語の神様ッ 第十一話

 飛行機やホテルの手配、空港からホテルまで車で送迎してくれたのは岡津だった。人気の頃の咲太ならいざ知らず、今や見事に凋落してしまった咲太みたいな芸人をこれほど手厚くもてなしてくれる世話人は貴重な存在と言える。売れてない芸人はぞんざいな扱いをされるのが当たり前で、それが悔しかったら売れるしかない。咲太のいる世界はそういう世界だ。
 岡津は二か月前、浅草の出番の後、咲太目当てに佐賀からわざわざ来てくれた、あの紳士だ。二年前に佐賀のお寺で開催された落語会で咲太の落語を聴いていた。その時は岡津の母親も一緒だったが、一年前に岡津の母親は他界している。生前、咲太の落語をもう一度聴きたいとよく話していたと聞いた時はさすがに咲太もやるせなくなった。そして、岡津は母親の願いを叶えるために落語会を主催し、今回咲太を佐賀まで呼んでくれたのだった。
「まさかこんなタイミングになるとはなぁ」
 咲太は岡津に心底感謝している。その気持ちは変わらなかったが、なんせトリ(主任)の興行が二日後に迫っているので、ありがたさを十分に味わえないでいた。
 会場の準備などの為に咲太をいったんホテルに落とした岡津との約束の時間まで小一時間あった。こんな気持ちのまま高座に出るわけにはいかない。
「岡津さんはこんな俺に声をかけてくれた恩人だ。精一杯演って落語を聴いてくれる人達に満足して貰わなきゃな」
 咲太は誰に言うでもなくそう口に出した。すると咲太の肩から頭の周りに侍っている十数体の貧乏神がみんなでうんうん頷いている。
 確か二年前は『看板のピン』『棒鱈』『紙入れ』の三席を演ったはずだ。
『看板のピン』は博打の噺で、博打好きの咲太はこの噺が好きだった。壺の中の賽の目を当てるだけのちょぼいちという賭け事。ピンとは一の目の事。すっかり耄碌したと思われていた老親分が卓越した技術で若い衆をやり込めて博打の怖さを教え諭す。しかし老親分の手並みに心酔した男が、別の賭場で真似をして間抜けな結果になるという滑稽噺だ。
『棒鱈』は、料理屋で隣同士になった、気が短い江戸っ子と珍妙な料理名や唄を披露する田舎侍が喧嘩する噺。咲太は江戸っ子も田舎侍も演っていて楽しくて、やはり気に入っている噺だった。
『紙入れ』は出入り商人の若い男が、世話になっている家のおかみさんに亭主の留守中に誘惑される噺で、帰って来ないはずの亭主が帰って来て慌てて逃げるも、紙入れ(財布)を部屋に忘れてしまってあたふたする艶笑噺。おかみさんとのシーン、翌朝の亭主とのシーン、咲太はやはり噺自体が好きだったし、自分で演じながら可笑しくて、当時よく掛けていたネタだった。
 この時、すでに人気が下火になっていた咲太だが、温かく迎えられ、客席の感触も良くて、久しぶりに仕事をしたという実感が得られたのを覚えている。三席とも演っていて楽しかった。
 今回は何を演ろうか。
 
 師匠の柳咲にトリを務める返事をした日から今日までの一ケ月の間、咲太は「十日間、毎日違うネタを掛ける」という目標を持って取り組んだ。
 本来なら十日間の中で幾ら同じ噺をやったって構わないのだが、最近の若手真打は皆そうやっていたし、ましてや咲太は今回、周囲を納得させる為の興行なのだから、毎日違うネタを掛ける事が必須事項だと考えていた。
「あんちゃんも馬鹿だねェ。自分で自分の首ぃ締めっちまいやがって」
 いつもの高台の稽古場で稽古をしていると例の爺さんが現れて、咲太の決意を聞くや鼻毛を抜きながらそう言った。
「でも実際、それぐらいやらねえと周りが納得しないっすよ」
 そして十日間のうち一日でも満員になれば無事真打決定という条件も伝えると、
「誰がトリぃとっても一日くらい札止めになるだろ、どこの寄席も」
「いつの時代の話っすか。どこも平日なんて客席が半分も埋まらない日もあって、集客に必死っすよ」
「嘘ばかりこくなぃ」
 そう言って爺さんが屁をこいた。
 爺さんは、この一ケ月咲太が毎日朝から晩まで高台で稽古に励んでいると、三日に一遍は現れた。咲太にしては願ったり叶ったりで、この切羽詰まったタイミングで爺さんにみっちり見て貰えるのが嬉しかった。とは言え、爺さんの方は、咲太が崖っぷちに立っているとは思っておらず、とくにいつもと変わりなかった。
 最初に聴いた「しじみ売り」、一ケ月前に聴いて度肝を抜かれた「唐茄子屋政談」、そして新たに聴いてぶるぶるっと震えた「黄金餅こがねもち」。この三つのネタの稽古をつけて貰って、あげて・・・貰った。
 落語家の稽古とは基本的には目の前で演って貰う事だ。そして後日、習った師匠の前で落語を演ってあげて貰う。これを「あげの稽古」と呼ぶが、ここであがらないと客前では演る事が出来ないのが暗黙のルールだ。ちなみに「ネタ下し」とは、あがって初めて高座で掛ける事を言う。
 しかし、この爺さん、普段は酒臭いし屁もこくし、のらりくらりとしていてなんともぞろっぺいな感じだが、あげの稽古の時は同一人物かと見紛うほど。眼光が鋭くなったかと思うと急激に空気が冷えて薄くなり、ある種の妖気みたいなものが充満してくる気さえした。
「ど、どうです、師匠」咲太が恐々として尋ねる。
「まあいいだろうな」
「ありがとうございます!」
 咲太はこれまでの落語家人生でこれほど稽古した事はなかったし、これほど自分の落語に納得がいかない事もなかった。願わくば、日替わりで掛ける落語の全てを一度どこかで演っておきたかったが、悲しいかなどこにもそんな仕事はなかった。唯一、トリの興行の直前に佐賀の仕事があるだけだった。
「佐賀は電車でどれくらいで着くんだった?」
「師匠、それが良い世話人さんで飛行機をとってくれたんすよ」
「飛行機なんてアタシは好かないよ。良い声で鳴く鳥が飛行機で運ばれて来たら全く鳴かなくなったてぇ話を聞いたけども、飛行機なんて乗ったら噺家も上手く喋れなくなっちまう」
「いや師匠、電車で数時間かかるところを飛行機だと二時間くらいで着くんすよ」
「ふん」
 咲太はこの爺さん、飛行機が怖いんだなと思って可笑しくなった。貧乏神達もそう思っているのかクスクスと笑っているようだった。
 
「よしっ」
 咲太が今回演るネタを決めたタイミングで岡津がホテルまで迎えに来てくれた。
 岡津はホテルから近い場所にある佐賀の名物海鮮を味わえる料理屋に案内してくれた。夕飯には少し早い時間だったが飛行機で食べて以来だったので空腹だった。咲太としては前回ご馳走になった地酒が恋しかったが、ここで自分を裏切るわけにはいかない。
「さ、どんどんやってください」
 岡津が勧めるがままに料理を注文し、咲太はどれもこれもとびきり美味しく感じ、たらふく胃に収めた。その食べっぷりを岡津は嬉しそうに眺めた。
「佐賀においで頂きまして有難うございます。母もとても喜んでると思います」
「こちらこそです。また呼んで貰えるよう、明日は精一杯演らさせて貰います」
「咲太さんのご両親様はご健在ですか」
「父親は幼い時に亡くなりました。母が女手一つで育ててくれました」
「そうでしたか。お母様は立派になった咲太さんを見てさぞ喜んでいらっしゃるでしょうね」
「ええまあ」
 実際は、咲太の母親は息子がどんな仕事をしているかなど全く興味がなく、毎日パチンコ屋に出入りしているような母親だった。息子の事よりも「どの台が出るか」だけしか頭になく、咲太が羽振りが良い頃はよくタネ銭の無心にアパートを訪れ、咲太が金を出すとひったくるようにして受け取り、挨拶もそこそこに帰っていった。ここ数年は咲太に金がないと分かると全く顔を見せなくなったし、咲太も特に会いたいとも思わなかった。
 だから、落語という同じ趣味を持って親子で仲睦まじく話をしたり、病気になった母親を献身的に介護したり、亡くなった後もこうして母親の願望を叶えようとしている岡津が羨ましく思う。
「明日は一番前の席で母親の遺影を隣に落語を聴かせて頂きますが宜しいですか」
「ええ、ぜひそうしてください」
 何かを察したのか岡津はそれ以上咲太の親については触れず、咲太が出演した過去のテレビ番組やラジオを母親と一緒に見たり聞いたりしたことや、『芸点』の一人空いた席に咲太が入って欲しいだとかを嬉しそうに話した。岡津の温かい気持ちがじんわり伝わってきて何度も有難いと思う。咲太は「こういう人にずっと応援して貰える落語家にならないといけない」と改めて落語家として背筋が伸びる気持ちになった。
 軽く明日の打合せをして岡津と解散し、ホテルに入る前に一つ伸びをして空を見上げると満点の星が突如現れて驚いた。急にびっくりさせやがる。あの爺さんと同じだなと咲太は思った。
 
 翌日の昼過ぎ、岡津の迎えで会場入りした。会場は二年前と同じお寺だ。岡津が当代の住職を説得して今回の開催にこぎつけた話はすでに聞いていた。場所は同じだが、果たして客の入りは二年前と比べてどうだろうか。いつものようにツばなれ出来ないんじゃないか。もしそうだったら岡津に申し訳ない。咲太はまんじりとも出来ないで開演時間を待っていた。貧乏神たちも心なしか落ち着かない様子だった。
「それにしてもお前ら、ぜんぜん居なくならないよな。というか、ちょっと増えてねえか」
 こいつらがこんなにいたんじゃ、客入りは期待出来ねえか。そう思っていると何やら客席の方が騒がしい。まだ開場時間には少し早いし、何かトラブルでもあったのかと心配になって岡津の元へ行くと、岡津が申し訳なさそうに口を開いた。
「咲太さん、すみません。お客さんがいっぱい来ちゃったので、もう開場してしまいました」
 見ると、数十席用意してある椅子がびっしりと埋まっている。会場になっているお寺の本堂がぎゅうぎゅうになっていて、椅子を補充したりして岡津達運営の者が右往左往しているではないか。先日の新潟の時も盛況だったが、あれはとんびの休業前最後の公演だったし、なによりとんびの後援会が主催だった。今回は咲太だけが出演する落語会だ。こんなことは久しくなかった事で、胸にぐっと来るものがあったが、始まる前からめそめそしてもいられない。とにかくこの客席を笑いで満たしたい。楽しませたい。満足して帰って貰いたい。そう思って高座に向かった。

 咲太が出囃子に乗って登場してからお辞儀が終わるまで温かい大きな拍手が鳴り響く。岡津も母親の遺影を隣の席に置いて咲太に向けて一生懸命拍手していた。「待ってました!」の声もかかった。
「ありがとうございます。待ってましたの掛け声もありがとうございます。二年も待たせてしまいました。もっと早くこちらに来たかったんですが、来よう来ようと思っているうちに気が付いたら二年が経っていまして」
 今日はちょうど浅草では四万六千日の縁日をやっておりまして、ほおずき市が出ています、と『船徳ふなとく』に入った。大店の若旦那が船宿に転がり込んで、船頭を始めてしまう。不慣れな上に腕力もないので、乗ってしまった客は災難としか言いようがない。舟の上にいるような所作をしながらテンポよく三人が会話するシーンは落語家の腕の見せどころだ。暑い盛りにぴったりの落語で、粋な川遊びの風景も浮ぶ滑稽噺だった。若旦那が肉体労働をする状況が『唐茄子屋政談』と似ていて、つまり「噺がツく」ので同じ日に両方は出来ず、どちらか一方をとることになるが、今日は『船徳』にした。これは柳咲が得意としているネタでもあった。
 二席目はとんびに習った『松山鏡』を演った。『船徳』も『松山鏡』もウケにウケた。前回来た時と同じかそれ以上だと思った。客席、本堂が揺れるんじゃないかと思えるほどの笑い声、落語を終えて下がるまでの拍手。全てがありがたかった。トリの興行の直前のタイミングになった事で、少しでも乗り気ではなかった自分を恥じた。自分の落語でこんなにも喜んでくれるお客さんが目の前にいる。その事は何よりも咲太を満たした。咲太は自然と高座を下りる前のお辞儀が長くなり、心の中で「もっともっと良い落語が出来るようになって帰ってきます」と何度も祈っていた。
 三席目は、やはり柳咲の得意ネタである『中村仲蔵』という、芸道に苦しみ、最後は出世する役者が主人公の噺を演ろうと思っていたが、予定を変更した。
 咲太は『死神』を演った。
 柳咲仕込みのどっしりとした『死神』を若手らしく熱演してみせた。
「アジャラカモクレン キューライス テケレッツノパァ!」
 噺の中で、死神を追い払って病人を治しながら、咲太は同時に客席の貧乏神を一挙に引き受けた。客席の頭上で何度か光った気がしたので、客席から咲太に移動する途中で幾らかの貧乏神は合体して消滅したのかもしれないが、ほぼ全員分が大移動しただろう。
 サゲでばったりと倒れた後、咲太が高座を下りるためにお辞儀をすると万雷の拍手が起こった。咲太は、岡津や岡津の母親の遺影にはもちろん、来場してくれた客の一人一人に御礼を伝えるように何度も頭を下げた。
 何倍にも人数が増えた貧乏神達も咲太と一緒にぺこりぺこりとやっている。
 見える人が見たら、百人近い貧乏神が数十人の人間に向かってお辞儀をしている奇妙で滑稽な光景だった。
 


つづく


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