ショートショート「別れ」(再掲)
わたしは猫である。
いつだったか散歩の途中でばったり出会った人間の雌に世話をさせている。初めの内は食事の用意をさせていただけだったが、離れる時になるといつも寂しそうな顔をするのでその人間のねぐらまで送ってあげた。そうすると喜ぶようなので、いっそのこと一緒に生活してみるかと、その人間のねぐらに居ついた。するとやはり人間の雌は大変喜んだ。
その人間の雌の名前はタカコだ。本人がそう名乗った。
キゾクのキと子供のコでタカコ。「完全に名前負けで、みんなにとって貴い存在どころか邪魔者」らしい。わたしはタカコの話には全く興味なかった。わたしの世話をしてくれればそれで良いからだ。
古い木の匂いがする広いねぐらは心地よかった。
暑くてどうしようもない日。太陽が真上に来た時も出入口にいれば涼しくて、そこでぐっすり眠る事が出来た。
朝、タカコが家を出る時に、出入口にいるわたしに何か言うのが煩わしかったが顎を撫でていくので気分が良くなった。
夜、帰ってきたタカコは同じことをする。
朝と夜のタカコでは別の人間のようだった。朝は活気を感じるが、帰宅したタカコには生気が感じられなかった。
だからどんどんわたしの世話をさせた。わたしの満足する食事や飲み物を用意させ、温かい水が沢山ある場所にわたしの場所を確保させ、なるべくわたしを飽きさせない工夫を凝らした余興を求めた。もちろん毛づくろいなど、わたしの身体を清潔に保つ努力は常にさせ続けた。
わたしの面倒を見ている時のタカコは、出かける時や帰って来た時よりも力強かった。
タカコが寝ている場所は人間には勿体ないほどすこぶる寝心地が良い場所なので、一緒に寝ることにした。その内わたしだけの場所になればいいが、タカコだけは同じ場所で寝る事を許すかもしれない。
その日の朝タカコはいつもと違っていた。出入口にいるわたしに話しかけながら泣いていた。私は朝から何を泣いているんだと煩わしかった。「なるべく早く帰っておいで」と鳴いて見送った。
タカコが帰宅したのは真夜中だった。いつも以上に生気が無かった。
それからタカコはわたしの面倒を見なくなった。
何回か太陽が昇って沈んだ。タカコより古い人間の雄と雌がわたしとタカコのねぐらにやって来た。タカコの周りの物がどんどん無くなった。タカコが使っているフトンも持って行ってしまった。
タカコとわたしのねぐらにはほとんど何も無くなってしまった。
わたしは人間たちにねぐらを追い出された。
まだあそこにタカコがいるというのに。
だけどわたしの面倒を見なくなったタカコと一緒にいても仕方がない。わたしの面倒を見てくれる別の人間と出会う方が身のためだ。
外に出ると近所の人間の古い雌達が「まだ若いのにねぇ。気の毒にねぇ」と猫の集会みたいに騒がしかったのですぐに退散した。
空気が冷たくなるとタカコがいるねぐらに行ってみた。確かにタカコの気配は感じるのに、出入口を開けては貰えなかった。やはりタカコはもうわたしの面倒を見る気はないのだなと思って諦めた。
空から白い冷たいものが落ちてきた日はたまらなくなってまたタカコのいるねぐらを訪ねて行って出入口を叩いてみた。
そこにはもうタカコはいなかった。
快適な生活はなかなか手に入らず、身体はどんどん汚れ、怪我が増えていったがなんとか生き延びた。わたしはまた涼しい場所を探す。
再びタカコの居たねぐらを訪れてみると、見たこともない人間の雄と雌と子供の雄がいた。困った事に若い雄の犬もいた。
わたしは別の場所を探して歩き始めた。
途中、河の上でしゃがんでいる人間たちを見かけた。足元には食べ物が置いてあって小さな火もいくつもあった。
ふと道路の向こう側にタカコの姿が見えた気がした。
両手を広げて笑顔でわたしを呼んでいる。
わたしは走った。
タカコがわたしの面倒を見なくなった日もこういう風が鼻をかすめていく暑い日だったなと考えながら走った。
ゴッガキゴきゃドゴッぎンガシャん!!
大きな音がして後ろを振り返ると、今までわたしが居た場所に顔がひどく潰れた大きな塊がいて大きな火を噴いていた。
タカコを探す。
どこにもいなかった。
「ごめんね。ごめんね。ごめんね…ゆっくり…おいで」というタカコの声が聞こえたような気がした。
「わたしの面倒を見るのをやめたくせに何を今更。だけどもう一度だけわたしの面倒を見させてやってもよいぞ」と思いながら、わたしは激しく鳴いた。