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おーい!落語の神様ッ 第一話


あらすじ
 十数年の修業を経て、四か月後に落語家の最上位階級『真打』に昇進することが決まっている若手落語家の紅葉家咲太もみじやさいた。一時期は超売れっ子だったが今はもう見る影もない。仕事は激減。不義理を重ね、自堕落な生活で作った百万からの借金を抱えて、度々電気やガスを止められる体たらく。昇進に必要とされる数百万の費用の算段なんてつくわけもなし。ヤケ酒を飲んで深夜の浅草を徘徊していると謎の老人と遭遇。咲太は翌日から貧乏神が見えるようになり、目が覚めたように落語に邁進し、試練に挑んでいく。果たして咲太は無事に真打に昇進出来るのか。老人の正体は一体誰なのか。落語界に福をもたらす演芸小説。

 紋付羽織袴姿の男が深夜の浅草を千鳥足で歩いている。この界隈の人達は気にもとめない。「どうせまたどっかのバカが飲み過ぎたんだろう」と見て見ぬふりをしてくれる。
 どっかのバカの正体は、この秋二ツ目から真打に昇進が決まっている落語家の紅葉家咲太もみじやさいた、三十四歳。落語の世界ではまだまだ産声を上げたばかりのひよっこだ。
 この日、咲太は昇進が決まった同期との「昇進祝いの落語会」をすっぽかしていた。紋付羽織袴に着替えたまでは良かったが、開演前の空き時間でパチンコ屋に入ったらもういけない。気が付いたら仕事を飛ばし、なけなしの金も擦っていた。どうでもよくなってヤケ酒を飲んだ帰りだった。しかも師匠の行きつけの店の師匠のボトルで。
「ちくしょう。死んでやる。死んでやるぞ」
 咲太はガラスに映る自分に向かって、吐き捨てるように言った。
「真打昇進の晴れのに着る紋付羽織袴がまさか死装束になるとはなあ」
 急に誰かに話しかけられた咲太は驚いてすっ転んだ。
「だ、誰だこのや、ろ?」
 高そうな茶の着物を着たつるつる頭の爺さんがニヤニヤしながら見ている。咲太はどっかで見た爺さんだなと思ったが、すぐには思い出せなかった。太客(金持ち)かもしれないのでとりあえず愛想良く振舞う。芸人の悲しい性である。
「えっと、どちらさんでしたっけ?」
「どちらもこちらもないよ。ただの通りすがり」
 咲太自身も相当酒臭いが、爺さんも尋常じゃない酒臭さだった。
「あんちゃん、死ぬんだろ?」
「そ、そうですけど」
「よし、じゃあ行こう」
 てっきり訳を聞かれるのかと思ったが違った。
「行くってどこです?」
「吾妻橋に決まってるだろ。そっから飛び込むんだろ」
「別にそんなこと決めてませんけど」
「じゃあ、どうすんだい?」
「どうするもこうするも爺さんに関係ないでしょ」
「大ありだよ。アタシゃ死神と呼ばれた男だからね」
 咲太は「ひっ!?」と声を出して全身をぶるぶるっと震わせる。
「爺さんのせいか。だから俺は死にたいなんて思っちまったのか……」
「お、あんちゃんなかなか落語が上手いな」
「でも本当に、『死神』みたいに爺さんが傍に来たから死にたくなったんすよ、きっと」
「嘘つけ。あんちゃん、死ぬ気なんてこれっぱかりもないだろうが」
 咲太は、爺さんの言い草と仕草から、同じ落語家だなと思う。だが、他協会になると全く縁がない師匠達もいるので顔と名前が一致しない。酒が抜けた状態なら思い出すかもしれなかったが、今にも消えそうなロウソクの火のような正気しか残ってない状態では「同業の先輩だろうな」と思うのが精一杯である。
「師匠、失礼しました。紅葉家咲太って言います」
 かろうじて咲太が挨拶すると爺さんは「ふん」と笑って浅草寺の方へとぼとぼと歩き出した。
「ちょっと、待ってくださいよ」
 
 浅草寺の隣にある浅草神社まで来ると、正月によく猿回しが来ている境内のスペースに小さな屋台が見えた。咲太が、こんなところにこんな時間までやってる屋台なんてあったかなと思っていると、爺さんが慣れた調子で屋台の椅子に腰かけた。
「師匠、こんなところに屋台なんか出てたんすね」
「ああ」
 食事や飲みに行く時は、所属している協会が違っても先輩がご馳走してくれるのが落語界の暗黙のルールだ。例え後輩の方が売れっ子で収入が多くても、先輩が奢るのは当たり前。さっきまで最悪の気分だった咲太だったが、他人の金で酒が飲めるとなったとたん、気分が上向きになる。そして出されたぬる燗をひと舐めしたらもう愚痴が止まらない。
「師匠、聞いてくださいよ。俺だってね、ちょっと前までは調子良かったんすよ。それが今じゃあ……」
 咲太は、古典落語と真正面から向き合うタイプの落語家で、いわゆる「本寸法」の芸を目指している。咲太の師匠である紅葉家もみじや柳咲りゅうさいは本寸法で有名な落語家で、紫綬褒章を授与されているほどの、誰もが認める一流の芸人だった。七十代になってさらに芸に磨きがかかり、落語ファンの心を掴み続けていた。
 落語の階級制度は、見習い(一~二年)、主に楽屋修業をする前座(三~四年)、師匠の元から自立して活動する二ツ目(十年)の期間を経て、真打となるのが現在のスタンダードだ。真打は相撲の横綱によく例えられるが、確かに真打になると師匠から破門されることもないし、寄席でトリを務める事が出来るし、弟子もとれるので、似ていると言えば似ている。
 咲太は柳咲の一番弟子で、前座の頃は師匠の仕事についてまわり、他の前座に比べてだいぶ名前が売れていた。幼い頃から落語に親しみ、本当は中学卒業と同時に弟子入りしたかったが、柳咲に「高校を出てからまたおいで」と断られてしまった。咲太はもちろんがっかりしたが、ぎりぎり高校に入学すると、落語好きの教師を見つけて顧問にし、落語研究部を創設してしまった。結局は勉強もせず落語三昧の高校生活を謳歌した。
 そんな経歴なので咲太は落語ファンの間では評判が良い前座だった。
 二ツ目に昇進し、自立してからもその恩恵に預かることが出来た。すぐにテレビやラジオの仕事が来たり、師匠の客筋が勉強会(自主興行)などに来てくれ、集客に困った事はなかった。
 だがそれがいけなかった。
 咲太はすっかり勘違いしてしまい、いつしか周囲が見えなくなり、自身の芸の研鑽を怠るようになってしまった。だんだんと客が離れていき、人気は下火になっていった。
 上野、浅草、新宿、池袋、そして半蔵門にある国立演芸場と都内に5か所ある定席と呼ばれる寄席。この寄席の楽屋で先輩方の世話をするのが前座の主な仕事だ。階級が一番下なので、ほぼ毎日先輩に飲み食いをご馳走して貰え、食事に不自由する事はないが、とにかく自分の時間がない。師匠宅と寄席を往復する毎日がひたすら続く地獄のような修業期間(住み込みの内弟子うちでしの場合、さらに自分の時間が無い)。だから同じ時期に前座修業をした仲間とは自然と絆が出来て、それは生涯続くのだった。
 だが咲太は、売れてる柳咲の仕事にベッタリだったから、前座の時に寄席の楽屋にはめったにいられなかった。二ツ目になって各メディアに引っ張りだこだった時には、寄席の出演も多かったが、妬みもあって楽屋では完全に無視されていた。咲太自身もそんな他の芸人達を見下していたふしもあり、仲間との交流はほとんどなかった。
 気が付けば、客の需要は、特に若手に対しての需要は、本寸法よりもテレビのお笑い芸人のような即興トークが出来る芸人や、古典落語の最中に、落語の世界観をわざと壊すようなギャグを入れてくる芸人にとって変わっていた。二ツ目になりたての頃は簡単に100席が埋まった独演会も最近ではツばなれ(客が十人以上入ること)出来なくなっていた。もちろん仲間から仕事を回して貰えず、スケジュールはがら空きだった。
 四か月後には真打昇進の披露興行やらパーティやら金がかかる行事が待ち受けているにも関わらず、貯金はゼロ。それどころか飲む打つ買うの三道楽で作った借金が膨らんでいた。
「仕事がねえから借金は払えねえ。真打の披露目の金なんてとうてい作れねえし。どうすりゃいいんすか。もう死ぬしかないじゃないですか」
 ベロベロになりながら咲太がやけっぱちで言うと、爺さんはまた「ふん」と笑った。
「なんすか?」咲太は眉間に力を入れる。
「あんちゃんよぉ、おめえ、噺家だろ。そんなの普通じゃねえか」
「師匠、お言葉ですがね、師匠たちの時代と違って、今はこんな状況は普通じゃねえんです。先の事を考えて、みんなしっかりやってるんすよ」
「なんだいそりゃ。しっかりしたやつは噺家になれねぇだろうに」
 爺さんはそう言ってゲップと屁を同時にかました。
「真面目に聞いてくださいよ」咲太は泣きたくなった。
「ケツ巻くって逃げたっていいし、別に死んだってかまやしないよ。何だっていいけど、とにかく明日だけは辞めたり死んだりしねえでやってみな」
「明日がなんです?」
「アジャラカモクレン、キューライス、テケレッツノパアとくらぁ!」
 爺さんの高笑いが突然耳の中で響いたかと思うと、咲太はそのまま意識を失ってしまった。
 
 翌朝、犬の散歩をしていた近所の女性が、浅草神社の境内で倒れている紋付羽織袴姿の咲太を見つけ、慌てて近くの交番に駆け込んだ。咲太は駆け付けた警官にこっぴどく叱られた後、二日酔いの頭痛を土産に帰宅したが、寄席の出番の時間が近かったのでそのままシャワーを浴びてまた浅草に出かける。
 楽屋で相変わらず孤立している咲太は、居心地が悪くて退屈なので、出番が終わったらさっさと楽屋を出ちまおうと、考えていた。
「おはようございます」と楽屋に入ってきたのは色物(落語家ではない芸人)のモギー鳥司だった。銀縁の丸フレームの眼鏡の奥の目は猫のように細くて笑顔に見える。「どっかに金でも落ちてねえかな」が口癖のマジックの先生(色物の芸人は、師匠ではなく先生と呼ばれる)だ。一応咲太も挨拶を返す。
 その時、モギー鳥司の肩に何か人形のようなものがくっついてるのが目に入った。最初は衣装かと思い、次にマジックの小道具か何かかと思ったが、モギー鳥司がそんなネタをやってるのを見たことも聞いたこともなかった。気になった咲太が直接聞いてみようかとモギーに近づいた。
「あのぉ……」咲太が声をかけようとした時に、人形のようなものがはっきり見え、しかもそれが生き物のように動いたから驚いた。
「うわぁ!?」
 咲太が見たのは、青白い顔をして、ボロボロの着物姿の爺さんだった。まるで落語に出てくる死神みたいな小さな爺さんがモギー鳥司の右肩に座り、足をぶらぶらさせて楽しそうに笑っていたのだった。
 動揺したまま高座に上がると案の定ボロボロだった。だが客が優しかったのかいつもよりもウケてしまった。咲太はさっき見た変なものと高座のウケかたの違和感と整理がつかず、頭の中がごちゃごちゃになって着替えもせずに楽屋を出た。そして演芸場を出たところで声をかけられた。
「咲太さんですよね」
 見るからに高そうなスーツに身を包んだ五十代半ばくらいの紳士が真剣な面持ちで咲太に声をかけてきた。いわゆる出待ちというやつだが、咲太には久しくなかったことだった。さっきの高座に対する文句かダメ出しだろうかと身構えている咲太に、紳士が「これ少ないですが」とポチ袋を差し出した。どうもと言って受けった咲太はポチ袋に触れた瞬間、その厚みで祝儀の金額がわかった。諭吉が五枚。
「以前、佐賀のお寺での落語会を覚えてますか」
 二年ほど前か。明るい客で出演料も良くて、美味い酒をたらふくご馳走になって、晴れ晴れとした気持ちで東京に帰ってきたのを咲太は覚えていた。裏が返るのを待っていたが、住職が代替わりしたとかで落語会自体がなくなってしまったのだった。
「私、母と一緒に行ったんです。母は病気で、だんだんと歩けなくなっていたんですが、昔から演芸が好きで、病気になる前はわざわざ東京の寄席にまで行くほどで。あ、わざわざって言ったら失礼ですね」
 紳士は右手を後頭部にやって笑顔を見せて話を続けた。
「だから近所のお寺で開かれたあの落語会をとても楽しみにしてたんです。あの時、母は咲太さんの落語が一番面白かったみたいで、家に帰ってきてからも『咲太は面白かったねえ』と何度も言っていました。その後も時折思い出しては『咲太は良かったねえ、また来ないかねえ』って言っていて」
 紳士が目元を拭うのを見て見ぬふりをしながら咲太が「住職が変わったとかで落語会がなくなちゃったんですよね」と言った。
「そうなんです。母もとても残念がっていました。それからだんだん体が不自由になって寝たきりになってしまって。去年亡くなったんです。亡くなる直前まで咲太さんは面白かったね、また聴きたいねって二人で話してまして。この前一周忌が済んだので、こうして母と一緒に来たつもりで。どうしても咲太さんに伝えたくて、図々しいとは思ったんですが、お声をかけさせて頂きました」
 咲太は聞きながら鼻の奥がツンとするのがわかった。昨日死のうとしていたどうしようもないクズの俺なんかをそんな風に思っていてくれた人があったのかと思うと、自分で自分が情けなくてたまらなかった。俺にはここで泣く資格なんてないんだ。芸人は人前で簡単に泣いたりしてはいけないんだ、と堪えた。
「ありがとうございます。お母様のご冥福をお祈りします」やっとそう言えた。
「それで、真打昇進前の大変な時期に恐縮なのですが、実は、咲太さんに佐賀で落語をやって頂けないかと思いましてーー」

 咲太の足取りは軽かった。真打昇進に向けての問題は何一つ解決されていないというのに、気分は晴れやかだった。さっきの佐賀の紳士から過分な祝儀と近年稀にみる好条件の仕事の依頼があったからだが、きっとそれだけではなかった。
「あんちゃん、なんか良い事でもあったのかい」
 急に話しかけられた咲太はすっ転びそうになった。
「昨日の爺さん……じゃなかった、師匠じゃないすか」
 やっぱり強烈な酒臭さだ。これだけ臭けりゃ、近くに来るまでにわかりそうなものだが、風向きの加減か、昨日も今日も姿を見るまで全く臭いはしなかった。
「おめえ、ひょっとして祝儀が入ったな」
「えっ、どうしてそれを」咲太が両手で懐を押さえた。
「アタシぐらいになると匂いで分かっちまうのよ」
 嘘ばかり言いやがって。さっきの佐賀の人とのやり取りをどっかで見てたに違いないと思って咲太は白状した。
「それは上々。アタシのおかげだよ」
 爺さんのおかげなわけないだろうが。どっちかと言えば2年前の俺自身のおかげだし。それともまた洒落なのか。咲太はそう思って言葉に詰まる。
「アタシがゆんべ、あんちゃんに憑りついてた貧乏神を追い払ったの」
「貧乏神って、あの貧乏神ですか」
「そうだよ。憑りつかれたら必ず貧乏になるというあの神様よ。あんちゃんにも見えるだろ。ほれ、あすこで呑んでるオヤジの肩。青っ白い顔した小汚い小さな爺さんが座ってるだろ」
 咲太は、あ、と思った。さっき楽屋でモギー鳥司の肩にいたのとそっくりだった。
 
 

つづく 

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