おーい!落語の神様ッ 第十五話
八日目、咲太が楽屋入りすると、いつもと違って賑やかだった。どうしたのかと思って顔を出すと、出番が終わった師匠方が師匠の柳咲を囲んで歓談していた。
「師匠っ!」
咲太が思わず声を出す。
「そんなツチノコを見つけたみたいな声を出す奴があるかい」
「どうしたんすか」
「どうしたもこうしたも、陣中見舞いに決まってるだろうが」
山盛りになっている楽屋見舞いはきっと柳咲が持参したものだろう。
「師匠、もう八日目なのに、まだ満員にはなってなくて……」
咲太が項垂れる。
「あと二日もある。これだけ入ってりゃ大したもんだ。顔を上げなさい」
楽屋にいたおそ咲によると、柳咲はサラ口(開口一番の前座)から居るらしい。同期のさん太ともいたずらっ子みたいな顔で楽しそうに二人で話している。咲太は楽屋の芸人達から慕われている柳咲が誇らしかった。
柳咲は、とんび仕込みの『松山鏡』も袖で聴いてくれて「良かった」と言ってくれた。
寄席がハネて柳咲と何人かの師匠方が出てくると、落語ファンらしき者がいてちょっとした撮影会みたいになった。それから師匠方が連れ立ってどこかへしけこむのを見送ったが、輪の中にあの爺さんがいたような気がしたがまさかと思う。咲太はおそ咲と二十四時間営業の蕎麦屋に入って解散した。
「あと二日か」
咲太はそのまま帰らずいつもの高台の稽古場に寄った。明日演る予定の噺をさらって帰ろうとした時、電話が鳴った。さっき別れたばかりのおそ咲からだった。
「兄さん、大変すよ!」
「どうした?」
おそ咲が咲太の主任の興行の宣伝の為に、柳咲達と撮った写真をSNSに公開しようとして驚いた。すでにその時の写真が拡散されていたのだ。
「ちょまって? 落語の神様が写り込んでね?」とか「幽霊? 怖すぎ」とかコメントが付き、短時間で画像が広まっている。中には「加工とか姑息」や「ここまでして宣伝したいか」や「神様に対する冒涜」だとか誹謗中傷じみたコメントもあるという。咲太はやってもない罪を断罪されている気分になった。冗談じゃねえ。
「で、本当にお化けか何かが写ってるのかよ」
「兄さん、それが本当に写ってるんです」
「誰が写ってんだよ」
「落語の神様っすよ」
「落語の神様って?」
「いやだから一人しかいないじゃないですか」
咲太はまたこれかと思った。以前柳咲とも同じやり取りがあった。
「明日、その写真を見せてくれ。あ、明日はきょう柳の出番か。きょう柳に見せて貰えばいいか。おそ咲、ありがとな」
咲太はこの時ばかりはスマホを持っていない事を後悔した。明日は早めに寄席に行く事にした。
「落語の神様って誰なんだ」
いつの間にか咲太は眠りについていた。
九日目。咲太は楽屋に入ると出番前のきょう柳を掴まえて問題の写真を見せて貰った。ちゃっかりあの爺さんが写っているのを見て「やっぱりあの時いたんだな」と見間違いじゃない事がわかってすっきりした。いたんなら声をかけてくれてもいいじゃねえか。
「で、落語の神様ってどこに写ってるんだ」
咲太にそう聞かれてきょう柳はぽかんと口を開けた。
「そのあからさまなぽかん顔はいいから。どれ」
「あ、兄さん、もしかして知らないんすか」
きょう柳はそう言いながら写真を指し示す。咲太は指し示された人物があの爺さんだったので「その爺さんが何だよ。他協会のレアな師匠だろ。知ってるし稽古付けて貰ったし。この師匠の落語を目の前で聴いたら、さすがにお前もぶったまげるぞ」
「いや、兄さん、あのぅ、洒落ですよね。この師匠に会ったみたいな感じですけど、五十年前に死んでる昭和の大名人。落語の神様ですよ」
「馬鹿言うなよ。だって、俺、ついこないだ会ったばっかだし」
きょう柳の目に恐怖の色が浮ぶ。
「いいですか、兄さん、これ見てください」
きょう柳のスマホに昭和の名人が並ぶ。その中に確かにあの爺さんがいた。
「いやいやいやいや。似てるけど。俺が会ったのは似てる師匠ってことだろ。いるんだろ、俺が知らないだけで似てる師匠が」
「いないっすよ」
咲太は訳が分からな過ぎてあの爺さんについて考えるのをやめた。キャパオーバーの思考停止である。
先日、がんもに言われてしまったがこの「茶番」みたいな興行にここまで付き合ってくれている皆に感謝の気持ちを伝えるべく、楽屋に入ってくる全員に丁寧に挨拶をした。肩に貧乏神がいる師匠もいればいない師匠もいた。咲太はふと思う。貧乏神が見えるんだから幽霊が見えたっておかしくない。ただ幽霊と言うにはあの爺さん、あまりにも実体がありすぎる。今回の写真だってはっきりくっきり写ってるし。あの爺さんが幽霊なら世の中の幽霊は全部ウソみたいなもんだ。
「どっかに金でも落ちてねえかな」
モギー鳥司が楽屋に入ってきた。
「鳥司先生っ!」
「イエティを見つけた時みたいな声出してどうしたの」
「あの写真の件、知らないんすか」
「ああ、あの爺さんだろ」
「そうっす」
咲太が少し声をひそめる。
「あの爺さん、とっくの昔に死んじゃってる昭和の名人だって本当っすかね」
「どうだろうね。現実的に考えて俺らが会ったのは似てる人って事だと思うけど」
「そうっすよね」
咲太がやっぱりそうだよなと安心しているとモギー鳥司が続けた。
「可能性があるとしたら」
そこまで言ってモギー鳥司がためる。
「あるとしたら」咲太が促す。
まだためるモギー鳥司。
「あるとしたら」促す咲太。
「今の俺らは記憶に障害が生じている事になる」
「記憶に障害、ですか」
「そう。この場合、二人供ってとこがポイントね。さらに」
そこまで言ってまたモギー鳥司がためる。
「さらに」咲太が促す。
まだためるモギー鳥司。
「さらに」促す咲太。
「あの爺さんはタイムリープしている」
「タイムリープってなんです?」
「『時をかける少女』だよ。時間を跳躍するって意味の造語」
「じゃあ時をかける爺さん、ですか。時間を跳躍……」
「そうか。時間を飛び越えてるのか。落語みたいだね」
モギー鳥司はふふっと笑った。咲太はモギー鳥司の突拍子もない説には付いていけなかった。やはり似ている爺さんだとしか思えない。
トリネタは『唐茄子屋政談』を演った。どうしても今回は外せないネタだった。無頼ではないが、人間として半人前だった若旦那が無私無欲で他人を助け、結果的に自分をも救う噺に全身全霊で挑んだ。咲太の演る「若旦那が登場する噺」は元々評判が良い。七割ほど埋まった客席が湧いた。緞帳が下がり、咲太の姿が見えなくなるまで拍手が鳴り響いていた。
チャンスはいよいよあと一日だけになってしまった。明日、満席にならなければ昇進は見送られ、師匠柳咲の面子も潰してしまう。自然と高台に足が向いていた。幽霊でもなんでもいいからあの爺さんと話したかった。見下すホームに電車が入って去っていった。
「よぉ、あんちゃん、しばらく見ねえうちに参勤交代の大名みたいに貧乏神を引き連れてやがんなァ」
「師匠っ!」
「うるさいねェ。今にも座りしょんべんしそうな面して何だぃ」
「師匠は幽霊なんすか?」
「藪から棒に何ぉ言いやがる」
この酒臭さが幽霊のものだろうか。
「馬鹿なこと言ってねえで稽古しろぃ」
と言って屁をこく。この屁の臭さが幽霊のものだろうか。
「やっぱり、師匠は本物の師匠ですよね」
「本物も偽物もあるかい」
咲太は力が抜けてその場に座り込んだ。
「俺、どうしても師匠に聞きたいことがあるんです」
「何だい」
「落語の面白さってなんすか」
咲太が爺さんをじっと見た。
「お前もくだらない事聞く野郎だねぇ。そんなの決まってるじゃねえか」
「なんです」
咲太は縋りつくような目で答えを待った。
「面白いように演ってるからに決まってるだろうが」
「へ」
「わからない野郎だねェ。てめえが面白いと思ったものをそのまま演ってるから客が聴いて面白いんじゃねえか。当たり前の事を聞くなぃ」
「へ」
「へばかりこいてないで稽古しろぃ」
やっぱりこの爺さんに会うと落語への迷いが消える。明日の千秋楽、きっと満員は無理だろう。昇進が見送られても落語を獲られるわけじゃない。師匠の顔に泥を塗ってしまうが、生涯かけて拭っていこう。この先師匠とおかみさんに精一杯恩返しをしていこう。咲太は心の中に熱いものが満ち満ちてくるのを感じていた。
【神々の寄合 シーン83】
青白く小汚い身なりの半福神達が、葛飾北斎が描いた悪玉踊りのようなポーズでずらっと並んでいる。
「明日、お別れの予感がしますな」
「そうですな」
「殿堂入りするでしょうな」
「こうして集まるのもしばらく無いでしょうな」
「皆さん、達者でいてください」
しんみりする半福神たち。
「今日が最後みたいなので、お聞きしたいのですが」
252体集まると何が起こるか今もわかっていない半福神が空気を読まずに声を上げた。
「なんですかな、せっかく別れを惜しんでいる時に」
「われら、貧乏神って呼ばれてますよね」
皆黙る。
「呼ばれてますよね」
聞こえないふりをする半福神たち。
「呼ばれてますよね」
執拗な半福神。
「呼ばれておらん」
「いやいやいや。ずっと呼ばれてますよ。どうして皆さんそこに触れないのかなと不思議で不思議で。今日が最後みたいだからこの際聞きたくなりまして」
あちこちから溜息が漏れる。
「どうしてわれら貧乏神なんて呼ばれているんです」
「そんなもん、死神には見えんからでしょ」
「はぁ。半福神と呼ばれずにどうして貧乏神と呼ばれているのかを聞いているのですが」
「見た目でしょうな」
別の半福神が答えるとその場がざわついた。
「おいちゃん、それを言っちゃぁおしめぇよ」
「半福神はつらいよ」
「真面目にやってください」
ふざけた半福神達がしゅんとなる。
「この際、半福神と呼ばれるよう啓蒙していきましょう。賛成のもの、あくだまあくだまあくだまきん!」
半福神が皆踊り始めた。咲太は夢でも見ているのか少し笑った顔で寝ている。
つづく