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おーい!落語の神様ッ 第七話

 師匠宅へ行くのは正月以来だった。その時の咲太は師匠とはろくに話さず、挨拶が済んだらさっさと帰ってしまった。三年前におかみさんに先立たれてからの師匠はどこか近寄り難くなっていたし、荒んだ生活の中にいた咲太は必要最低限の用事には顔を出したが、全ての事が面倒に感じられていたし、どこに居ても居心地が悪かった。
 咲太はおかみさんの死に目に会えなかった。へべれけに酔って寝てしまい、連絡に気付かなかったせいだ。それからというもの、咲太は師匠宅に寄りつかなくなった。亡くなる少し前、おかみさんが咲太の事をとても心配していたと弟弟子に聞かされてからはますます敷居が高くなってしまった。
 その師匠宅、咲太の家から徒歩十分程度。咲太は歩きながら、昨日の帰りの新幹線で聞いたみかんの話を思い出していた。
「楽屋で、柳咲師匠、玉蔵師匠や白平師匠にめっちゃブチ切れてましたよ」
「どうして?」
 柳咲は楽屋ではそれほど口数が多くはなく、どちらかと言えば穏やかな性格だ。反対に、雲海楼玉蔵うんかいろうたまぞう林々家白平りんりんやしろへいは楽屋では常にくだらない噂話をしている噺家達だった。三人の中では柳咲が一番上である。
 みかんの話では、玉蔵と白平は明らかに柳咲が楽屋に入ってきたのに気付かずに咲太について何か言っていたらしい。
「真打に昇進させていいのかとか……」
「そうか」
 咲太は、師匠が咲太の事で「ブチ切れる」なんて信じ難かったが、もしそうだったとしたら、柳咲にそこまでさせる自分はなんて親不孝な弟子なんだと思った。
 
 家屋の周囲に無造作に置かれている植木鉢の数が段々と多くなり、下町然としてくる一角。気の早い風鈴の音も聞こえる。見慣れた木造二階建ての前にも植木鉢があったが、どこか草花に元気がない。本名の表札と芸名の表札が並んでいる。咲太は唾を飲み込んでインターホンを押した。
「師匠、俺です。咲太です」
「入りなさい」
 やはり師匠は機嫌が悪い。咲太は小言を覚悟した。玄関の引き戸を開けて中に入った。靴を脱いで居間に向かう。物が乱雑に置かれているし、埃っぽい。
「師匠、ご無沙汰してすみません」咲太はそう言って新潟土産を渡し、頭を深く下げた。
「掛けなさい」
 頭を上げた咲太が二度驚いた。まず部屋全体が汚いのに驚き、師匠の両肩にわんさかいる貧乏神に目を見開いて絶句した。
「ど、どうしたんですか師匠!」咲太はやっとの事で言う。
「何がだ」
「い、いや、あの、えと、掃除してないんすか」
「掃除をしに来る弟子が誰もおらん」
「きょうりゅうやおそ咲は顔出さないんすか」
 咲太には弟弟子が二人いて、どちらもすでに二ツ目になっている。
「あいつらはお前と違って仕事で忙しい。お前も真打昇進の準備で忙しいんだろうが、目と鼻の先にいるんだから、たまには線香をあげに来なさい。あれはお前を最期まで心配していたんだ」
 柳咲とおかみさんはおしどり夫婦で有名だったがついに子宝に恵まれなかった。咲太は高校を卒業してすぐ入門したし、最初の弟子とあって、おかみさんは弟子の中で一番厳しく接し、一番の味方でいてくれた。咲太にもそれは十分すぎるほど分かっていた。だからなおさら死に目にも会えず、亡くなる直前まで心配をかけた事を悔いていた。
 咲太は師匠の話を項垂れて聞くしかなかった。おかみさんの事を思うと胸が締め付けられる。しかも柳咲はしばらく会わない間に萎んだようになっていたし、身体から覇気が感じられなかった。機嫌が悪いのはどこか身体が悪いからではないのか。そして両肩には大量の貧乏神。十数人以上の貧乏神が師匠に憑りついていた。弟子が寄りつかない間に貧乏神に気に入られてしまっていた。にこにこしている大勢の貧乏神の様子はご陽気そのものだが、何か良くない事を運び込んでいるに違いなかった。
「ぼーっとするんじゃない。人の話をちゃんと聞きなさい」
「師匠、最近、『死神』演ってます?」咲太は思いついた事を言ってみた。
「ああ、今度の独演会にネタ出ししてるし来月の中席のトリもあるしな。あちこちで演らして貰ってる。それがどうかしたか」
「だからか」咲太は心の中で合点がいった。
「あの、師匠、後で『死神』の稽古付けて貰えませんか」
 咲太は柳咲の貧乏神達を引き受けようと決めた。それに久しぶりに師匠の『死神』も聴きたかった。
「お前にはもうおせえただろうが」
「師匠。俺、最近ある人の落語を聴いた時に、なんていうか思いっきり水をぶっかけられたみたいになって。それからは落語がしたくてしたくて仕方がないんです。だからもっぺん師匠に稽古付けて貰いたいんです。お願いします」
 咲太はその場で土下座した。
「土下座なんてよしなさい。稽古は別にいい。アタシの稽古にもなるからな。で、ある人って誰なんだい」
 
 咲太は、貧乏神の件は省いて例の爺さんの事を柳咲に話した。落語の演じ方や容姿を説明し、いつも酒臭くてよく屁をこく事。おそらくこの近所に住んでるだろうことも伝えた。
「師匠、ご存じないですか」
「お前の話を聞いて思い浮かぶ噺家が一人いることはいるが」
「いることはいるんですね」
 いよいよあの爺さんの素性がわかると思って咲太は思わず前のめりになる。
「いることはいるが、いない」
 咲太はわかり易くズッコケる。
「どういうことです?」
「もうとっくにこの世にはいないんだ。アタシが入門した時期に亡くなられた師匠に似ている。お前も知らんわけないだろう、落語の神様と呼ばれた師匠だ。今でもあの師匠には沢山のファンがいるから、おおかたその御仁もファンか何かだろう。それよりちょっとお茶を入れて来なさい。話がある」
 
 咲太はさっき柳咲が言っていた「落語の神様と呼ばれた」噺家が全く思い浮かばなくてモヤモヤした気持ちになりながらも、久しぶりに師匠宅の台所でお湯を沸かして、師匠の好みの温度まで待ってお茶を入れた。
「そろそろお席亭に昇進の挨拶に行かないといけない。お前、準備は出来てるのかい」一服した柳咲が切り出した。
 九月下席(九月二十一日)から秋の真打昇進披露興行(都内五か所の定席で十日間ずつ、計五十日間)が始まるが、だいたいその二ヶ月前に、一緒に昇進する仲間と「席亭」と呼ばれる寄席のオーナー、つまりお偉方に挨拶周りをするのが決まりだ。
「はい、一応、なんとか紋付羽織袴は揃えました」
 あの爺さんに遭ったあの日、咲太は金を借りて質屋から紋付羽織袴を受け出していた。
「紋付羽織袴を揃えたかどうか聞いてるんじゃない。昇進の準備は出来たのかと聞いているんだ」
 咲太が黙って俯いてしまうと、柳咲が続ける。
「お前、あちこちに借金があるな。芸人にこそ借りてないようだが、落語会をやってくれた世話人さん達に結構な額を借りたまんまになってる。演芸ホールの近くの雀荘の輩にも借りてるな。きっと他にもあるんだろう。お前、その金、いったい何に使ったぃ」
「酒とか遊びで……」
「それで、返せる当てはあるのかい」
「いえ……」ずっと目を背けてきた事だった。膝に置いていた手に力が入る。
「それによく抜くそうじゃないか」
 仕事をすっぽかす事を「抜く」というのだが、咲太はどうでもよくなる時があって、何度か現場を抜いていた。
「楽屋での軽い噂話程度なら構やしないが、協会の理事会でもお前の昇進は見送った方がいいんじゃないかという話が出たよ」
 咲太は顔を上げて師匠をまっすぐ見つめた。昇進に向けての金もなければ昇進披露のパーティに呼べる客もいない。幟は『いつきや』の大将が作ってくれるかもしれないが、後ろ幕や招木を作ってくれる後援者の当てもなかった。とんびに言われた通り、あと三ヶ月やそこらで百万からの借金を抱えながら、昇進に必要な数百万を用立てるのはどう考えても無理な話だ。咲太は覚悟を決めた。
「わかりました」
「まだ何も言ってないのに、なんだ、わかりましたって」
「昇進は見送りですよね」
「そうだな。アタシもさっきまではそう思っていた。あれともようく話した」柳咲が仏壇の方を見ながら言った。
「咲太お前、さっき土下座までしたな。アタシには心を入れ替えてやり直すと言ったように聞こえたがどうなんだぃ」
「俺、ずっと自分でどうにもならなかったのに、この一ケ月ばかり、酒も博打も遊びもすっぱりやめられてて、無性に落語の稽古がしたくてしたくて。でも仕事が無いんで。以前師匠に教えて貰ったあの高台の神社ンとこで毎日稽古もしてるんです。俺、今、本当に落語だけがやりたくてやりたくて……」
 咲太は、昔みたいに咲太の肩に手を置いて「もう許しておやりよ。今度やったらあたしが許さないからね」と言ってるおかみさんの笑顔を思い出してさめざめと泣いた。
 
「お前のせいでアタシは理事会で争うことになりそうだ」
 それは、咲太の真打昇進を見送らず、後押しするという意味だ。
「いいか咲太、次はないぞ。もしまたお前の了見違いがわかったら、その時は」
「はい」咲太は柳咲が「破門」という言葉を口にする前に返事をした。
 柳咲は咲太の目をじっと見た。そしてまた仏壇に顔を向けて「これでいいな」と言った。
 咲太は柳咲とおかみさんの為にも、どんなに貧乏ったらしい真打昇進になろうとも、落語だけは、落語に対する心意気だけは錦でいようと堅く決意した。
 
 柳咲の稽古部屋に入るのはやはりおかみさんの事があって以来だから三年ぶりだった。この部屋も散らかっていて埃っぽい。
 師匠が上座に座って『死神』の稽古が始まった。師匠が演る死神は、汗がねっとりと体にへばりつくような不気味さと空中を浮遊する身軽さのある、凄みと愛嬌のある死神だった。さすが師匠だと思った。話の筋を知っているのに次はどうなるのだろうかと、ハラハラし、すっかり世界に入り込んでいた。その証拠に、柳咲が「アジャラカモクレン、キューライス、テケレッツノパア」と言った時に、咲太の肩にいた貧乏神が「はっ」という顔をした後すぐに寂しそうな顔をして柳咲の肩に移ったのさえ気付かなかった。
「さ、今度ァ、お前が演んなさい」
「ありがとうございました。勉強させて貰います」
 咲太は自分の落語に対する今の想いを『死神』に託した。
 わずかの金の算段がつけられないばかりに女房にバカにされてやけっぱちになって首を吊ろうとする主人公の男。そこへ死神が現れて金を作る方法を教えてくれる。病人の足元に死神がいる場合は「アジャラカモクレン、キューライス、テケレッツノパア」と唱えると死神が退散して病気がけろっと治ってしまうから、医者をやれと言う。ただし、枕元に死神がいる病人は助からないから諦めないといけない。いったんは大儲けした男だが、すぐに遊びで使い果たし、また医者で稼ぎ始める。男は欲に負け、枕元にいた死神を騙してしまう。ところがそれは自分の寿命と助かる見込みのない病人の寿命を入れ替えてしまう事になっていたのだった。必死でローソクの火を付け替えようとするが……。
 ローソクの火が消えたところで咲太がばったりと倒れる。師匠から引き受けた大量の貧乏神が楽しそうにみんなで咲太の真似をして倒れて遊んでいる。咲太から師匠へ移った貧乏神もその中にいて喜んでいた。
「師匠、どうですか」咲太は両肩が急に賑やかになり重くなった気がする。
「やっぱダメですか」
 咲太がもう一度聞く。すると柳咲がばったりと倒れた。咲太は『死神』のサゲの所作の見本を見せてくれているのだと思い、「師匠、こうですか」と真似して演ってみる。
 柳咲がなかなか起き上がらない。
「師匠?」
 何度も呼ぶが返事がない。咲太が傍にいってまた呼ぶが、何の反応もない。
「師匠、ちょっと、しっかり、しっかりしてください、師匠!」
 咲太はあたふたしながらとにかく救急車を呼んだ。
 
 
つづく

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