時がたつのを速く感じる理由
ここ数年、時間がたつのが早くなったように感じている。テレビのニュースなどを見ていても、あの事件からもうこんなにたったのか、と唖然としたり、ついこの間生まれたと思っていた知り合いの孫が、もう小学校へ入学したのかと驚いたりする。
知り合いの孫だって突然大きくなったわけではないから驚くことはないのだが、とにかく、あれよあれよという間のことに感じる。
子供の頃は待ち遠しかった正月なども、今では駆け足でやってくるような気がしてそら恐ろしいくらいだ。
私はこれまで、時間の経過を早く感じるのは次の二つの場合だという自説を唱えていた。
一つは忙しいときで、もう一つは楽しいときだ。便宜上、前者を「忙閑説」(ぼうかんせつ)、後者を「好嫌説」(こうけんせつ)と、いかにもという感じで名づけておく。もちろん、その複合型もある。
A氏に、一日のうちにやらなければならないことが山ほどあるとすれば、たちまち昼になり、夜になるというふうに感じて「忙閑説」が当てはまる。
これを逆の見方で考えれば、「今日は一日中何もしないで、家の中でじっとしていなさい」などと言われたら、あまりの退屈さでうんざりするほど長い一日になる。
B氏が、好きな人と好きなところへ行って好きなことをしていればどんどん時間が過ぎることになり、「好嫌説」に該当する。
反対に、嫌な上司といっしょに嫌な得意先へ行って嫌な商談をするとなったらおそろしく遅く感じるはずだ。
そんな能天気な自説を唱えて悦に入っていた矢先、『究極の雑学』(角川文庫)という本で興味深い説を発見した。
その説を要約すれば、『年齢を重ねて新陳代謝が鈍ってくると、体内時計が遅れ、その分、時間が早く過ぎるように感じる』ということだ。
どの程度の確証があるのかわからないが、なるほどそうかも、と思う半面、はたしてそうだろうか、というふうにも思う。
ところで、そうこう考えているうちに、三つめの自説を思いついた。名づけて「世忙説」(よぼうせつ)。世の中そのものが忙しいから早く感じる、という理屈だ。
世の中では、既存のいろいろな出来事に加え、毎日毎日新しい事件や事故が次々と生じている。そしてそれらは時々刻々と変化している。
人々は新しい物事に対応するのに精いっぱいで、古いことにはかまっていられなくなる。あれよあれよと過ぎ去って、気づいたときには遠い過去。
というわけで、『あの事件からもうこんなにたったのか』などと思うことになる。
のんびりした世の中なら、おそらくそうはならないのではないか。
どの説であろうと、最終的にたどりつく答は「脳の錯覚」という一言に尽きると思う。時の流れは一定していて、いつでもどこででも、そして誰にでも平等なのだから、脳が錯覚している以外にはありえない。
問題は、なぜ脳が錯覚を起こすのかということだ。脳科学者ならたちどころに正答を解説できるだろうけど、能天気な私にそんな才能はない。だから、忙閑説、好嫌説、世忙説を当てて納得することにしている。