
〔ナンセンス劇場〕昼さがりの魔女
ぶっ散らかった部屋の掃除が終わったらちょうど正午になった。
今夜は恋人の美留が来ることになっている。二人だけのささやかなクリスマスイブだ。俺はそのときにプロポーズするつもりでいる。いくらずぼらな俺でも、プロポーズくらいはきれいな部屋でしたかった。
そんなことを考えながら、昼飯を食いに行こうとして玄関を出た。そのとき、家の前を通りかかった女と目が合った。女は立ち止まり、声をかけてきた。
高級そうなコートの裾からスカートが見える。そこから出た脚の大部分はブーツに隠されている。年は、二十代も残り少ない俺より少し上といったところか。
女はこの地域のことを調べていて、地元の人の生の声を聞きたいのだが、なかなか適当な人に会えないで困っていたのだという。そこへひょっこり俺が出てきたというわけだ。どんな話でもいいというので、俺でいいならかまわないですよと答えた。
「その調べもの、時間がかかりそうですね。外は寒いし、よかったら家の中でどうですか」
と言ってみた。ちょうど部屋をきれいに掃除したところでもある。
「え、いいんですか。ありがとうございます。助かります」
女は嬉しそうに言って玄関のほうへ目をやった。
女は居間へ入るとぐるりと見回し、きれいにされていますね、というひと言に続けて言った。
「わたし、この部屋の匂い、好きです。男の匂い、好きなんです」
俺は一瞬言葉が出なかった。え、はじめての家で言うセリフ? いや、はじめてじゃなくてもだけど。冗談で言ったのだろうか。
女をソファに座らせ、いまコーヒーを淹れますからと言うと、自作のハーブティーを持っているのでカップだけ貸してほしいと言う。あ、二つお願いしますね、とつけ加えて。
膝の高さまでしかないガラステーブルにカップを置くと、女はショルダーバッグから出した小さなボトルを手に取り、ハーブティーを注いだ。
おかしな味のハーブティーを飲みながら、女は自分のことを簡単に説明した。名前はカタカナでジョマだという。ジョマ? 一瞬、俺をおちょくっているのかと思ったが、ほんとうですかなどと訊くわけにはいかない。住んでいるところや仕事などにも触れたが、真実かどうかはわからない。
俺は地域のことをあれこれ話してあげた。ジョマは相槌を打ちながら聞いていたが、突然話を遮って話題を変えた。
「ねえ、ところで、あたしの目をどう思う?」
「目?」
「ええ、目よ」
わけがわからないまま数秒間見つめた。形のいいきれいな目だった。見た感じをそのまま伝えた。
「ありがとう。これでオーケーだわ」
ジョマはそう言ってほほえんだが、何か違和感があった。ほほえんだというより、にんまりと笑ったという感じだった。それに、言葉遣いがラフになっている。いつのまにか「わたし」から「あたし」に変わってもいる。
「オーケーって、どういうこと?」
能天気な俺もさすがにおかしいと思ったので訊いた。
「あたし、魔女なのよ」
「魔女? 魔女だと? あの、箒に乗って飛びまわる」
「そうよ。あたしは箒には乗らないけど」
なぜだかわからないが、俺の思考回路は正常に機能していない。普通なら笑い飛ばす話なのに、それができない。なんだ、俺はどうしたんだ。
「さっきのハーブティーにはね、本能、特に性欲を活性化して、逆に理性を抑制する力があるの。どういうことかわかるわよね」
わかるわけがない。
「そして、あたしの目を三秒以上見つめたことで、あなたの意思の半分はあたしの支配下に置かれることになったわ。あなたはもう、あたしに対して強く抵抗することが困難になっているのよ」
俺の間抜けな頭はさらに混乱した。わけがわからない。わけがわからないが夢ではなさそうだ。さっき、いつも目にするシロネコトヤマの速急便のトラックが家の前を通った。夢などではない、いつもの日常だ。
俺の意思の半分がこの女、ジョマの支配下に置かれただと?
「あなた、あたしがソファに座ったときからずっと、スカートの奥が気になっていたでしょ」
図星のずっちゃん。
「魔女の能力か」
「そんなことは魔女じゃなくてもわかるわよ」
たしかに。
「いまはもう、そのときよりも欲望が格段に強くなっているはずよ」
ジョマはそう言うと、わずかに膝の間を広げた。俺の目はそこへ吸い寄せられた。まるで磁石に引きつけられる砂鉄だ。
やはり変だ。ジョマの膝からなかなか目を外せない。それでもどうにか、ジョマの顔へ視線を移した。
「スカートの奥の次はあたしの裸を想像したわよね」
当たりのあっちゃん。俺はもう、どう言えばいいのかわからなくなった。そこへジョマが追い討ちをかけた。
「そして、裸を想像した後、あたしとやりたいって思ったでしょ」
悔しいがこれも図星。顔から火が出る思いだ。それにしても、女の口からやりたいなんていう言葉が、あ、俺が思った言葉をそのまま言ったわけか。
「あたしのエネルギー源は、あなたの中での欲望と理性の闘いなのよ。その闘いが激しいほど、あたしが吸収するエネルギーは大きくなるの。そして、性的な快感も満たされていくの」
俺はなんとか欲望を静めようとしたがむだだった。目の前の豊満なボディは俺の欲情をそそり続ける。
ジョマの言ったことはほんとうだった。性欲が高まる一方で、理性は、ニンニク攻めに遭ったドラキュラみたいに衰弱しつつある。
「あたしをねじ伏せて、悶え狂わせたいって思ってるでしょ。どんな喘ぎ声を出すんだろうって。でも、あなたの理性は必死に抵抗するのよ。あたしはその、欲情と理性のせめぎ合いが大好物なの。興奮するのよ。ああ、いい。とてもいいわ。感じてきたわ」
ジョマがさらに脚の間を広げた。俺の目はまたまた、いや、しゃれじゃないが、視線は股へ吸い寄せられた。まだ奥までは見えないが、とにかく完全にジョマのペースだ。
「ご希望のものは見えたかしら。あなたのズボンの中のもの、さぞや元気になっていることでしょう」
ジョマが声を出していやらしく笑った。
「この地域のことを調べているというのは嘘だったんだな。ほんとうの目的はなんだ。家の前を通りかかったのも、偶然に見せかけた、おまえの作戦なのか」
「そうよ、すべてあたしの作戦。ところで、あなたには美留という恋人がいるわね」
俺は仰天した。
「なぜそんなことを知っているんだ」
どうにか膝の間から視線を外し、声を絞り出して訊いた。
「あたしは魔女。なんでも知ってるわ。今日のあたしの目的は、あなたに、あたしを抱かせること。美留より先にね」
「な、何を、ばかげた、ことを」
「ふふ、声がうわずってるわ。あなたは美留に、ほかの女には絶対手を出さないって約束したでしょ。そのあなたが美留を裏切ったとき、あたしの快感は最高潮に達するの。オーガズムを迎えるのよ。男女の愛の破綻があたしの最高のごちそう。あなたは、あたしを抱くのよ」
ジョマはそう言って、ソファに座ったままスカートの前のほうを上にずらしはじめた。
「お、おまえなんか、おまえなんか抱きたく、抱きたく、抱きたくたい」
抱きたくたいってなんだ。俺の日本語はどうなっているんだ。
スカートは完全にめくられた。もう、視線を外すことができない。
ジョマが履いているのはパンストではなかった。ガーターベルトで止められたストッキングだ。そのストッキングに覆われていない、ショーツとの間の肌が欲情を一気に燃えあがらせた。
ガーターベルトは黒、狭い面積のショーツも黒。しかもショーツは目の粗いレースだ。俺は、心臓の鼓動をジョマに聴かれているような気がした。
「いつまで、あなたは、脆弱な理性を、保てるかしらね。あなたの葛藤が、激しくなるほど、あたしは、燃えるの。ああ」
ジョマのしゃべり方がおかしくなってきた。声に喘ぎがまじっている。
「俺は美留を捨てない。美留との約束は守る」
かろうじて言ったが、おれの理性は崩壊寸前だ。
「その強がりが、いつまで、あ、続く、かしらね。もう、ズボンを、突き破りそうに、はちきれそうに、なってる、でしょ」
ジョマの喘ぎは強さを増している。俺の欲情と理性が闘っているのを見て欲情しているのだ。ジョマの右手が、ショーツの中へ入っていった。
「ああ、いいわ。とても、いい。美留なんて小娘、もう、どうでも、いいでしょ。あなた、もっと苦しんで、ちょうだい。ああ、このままじゃ、下着が汚れちゃう。脱がなきゃ」
やめろ、やめてくれ、理性が崩壊する、と心では叫んでいたが、もうだめだ。ズボンの中のお元気野郎は理性の叫びを無視している。
「一回だけで、いいのよ。我慢することは、ないわ。さあ、来て」
ジョマが喘ぎながら呼んでいる。
☆ ☆ ☆
今日のストーリーは過去最高だ、と凡吉は心のなかでつぶやいた。こんなに込み入った妄想はこれまでになかったと、満足そうに振り返るのだった。
「恋人いない歴五年の、二十代も残り少ないこの俺に、結婚を視野に入れた恋人がいるという設定もよかったけど、魔女というまさかのキャラクターを登場させたのがさらによかったな。
だけど、こんなストーリーにするなんて、俺にはマゾっ気があるのだろうか。次は逆のパターンにしてみようかな。
妄想は、不条理だろうとなんだろうと制限はないし、他人に迷惑をかけるわけでもなければ犯罪になるわけでもない。手間もカネもかからないし、いいことずくめだな」
凡吉の趣味は妄想、特技も妄想。妄想なら凡吉の右に出る者はいない。自他ともに認める根っからの妄想マニアだ。
そんなことを思いながら、凡吉はぶっ散らかった部屋の壁に貼った自筆の書を読み返した。
『妄想とは、ありえないようなばかばかしい空想、根拠のないことをあれこれ想像することを言う。
これを日々怠らず、精進しなければならない。 凡吉』
そして凡吉は決めたのだった。
「そうだ、今日の妄想日記のタイトルは『昼さがりの魔女』にしよう」