発想そのものが偉大です
子供のころ、図鑑だか少年向け雑誌だかで、月までの距離(約38万キロ)を説明した絵を見た記憶がある。それをふと思い出した。
たしか、ロケット、飛行機、電車、自動車、自転車、歩く人などが月へ向かっている絵があって、それらには、月へ到着するのに要する時間が示されていた。もちろん詳細はすっかり忘れてしまったが、たとえば、時速1,000キロのジェット機ならだいたい17日かかり、時速4キロの徒歩なら11年かかるといったようなものだった。
そんなことを考えていたら、惑星探査機のボイジャーを思い出した。人類が月面に立ったアポロ11号もすごいが、私にはボイジャーの印象のほうがいまだに強烈だ。
ボイジャーには1号と2号がある。どちらも1977年に打ち上げられたNASAの探査機で、木星、土星、天王星、海王星の4つの惑星を初めて探査した。
打ち上げられたのは47年前の1977年だ。テレビカメラをはじめ、いくつもの機器を搭載していた。そして、さまざまなデータを取得したり、未知の物事を解明したりした。
半世紀近く前といえば、コンピュータも電池も観測機器も、何から何まで、とにかく現在と比べれば、いや、比べるどころか、比較すること自体が気の毒なほど差がある。
そんな時代に、調査した四つの惑星ではもっとも遠い海王星まで無人で飛行し、地球に写真やデータを送り続けた。ちなみに、海王星までの距離は最も近いとき(近日点)で約43億キロ、最も遠いとき(遠日点)で約47億キロだ(平均すると、太陽・地球間の距離の約30倍)。ボイジャー1号は1989年に海王星を通過したが、それまでに約12年を要している。
現在、ボイジャー1号は太陽系を出て星間空間を飛行し、2号は海王星の外側を公転しているという。
そんな大きなスケールのことに思いを馳せていたが、突然スケールダウンし、思いがジェット機のことに切り換わった。ジャンボジェットをはじめとするあの大きな航空機が飛ぶことを、私はいまだに驚異と思っている。
飛べる理屈はわかる。特殊な形に設計された翼によって揚力が発生するからだ。そういう理屈は、うわべだけではあるが一応わかる。
しかし、安全に飛行できるということが計算だけでわかるのだろうか、と思ったりする。羽根の形はそれでいいのか、取りつける場所や強度は、そのほか山ほどのいろいろ。
やはり机上の理論だけでは心配だから、原寸大の模型を作って実験するのだろうか。いや、いくらなんでもそんなことはあるまい。仮に原寸大の模型を作るにしても、いったいどうやって飛ばすのだ。では、100分の1とかの模型で実験するのだろうかなんて考えたりする。こんな疑問はちょっと知識のある人に訊けばわかることだが。
まあ、そういった技術的なことは専門家がやることだから、素人が心配することはないとして、私がもっとも感心するのは、よく〝あんなばかでかいものを造ろうとしたものだ〟という発想についてだ。
たとえば、エアバスA380は2階建て構造で853席もの座席があり、全長は72.7メートル、主翼の幅は80メートルもある。そして、最大離陸重量は560トンという巨大さだ。拙宅の何倍も大きい。そんなものが空を飛ぶのだ。
普通なら、そんなものを飛ばそうなどという発想そのものが出てこない。乗客として乗る一般の人たちの多くは、なんの違和感もなく、安く乗る方法はないかとか、機内食がどうだとか、そんなことを考えるくらいだ。
私は乗るたびに、羽根にはものすごい力が加わっているだろうけど、もげないだろうか、着陸するときに車輪がはずれたり折れたりしないだろうか、などとよけいな心配をしている。
ボイジャー1号2号やアポロ11号の開発もすごいけど、航空機を開発した人たちもすごいと思う。いくら専門家といえ、もう、発想そのものがたいしたものだと、飽きもせず感心している。
どうでもいいことを大まじめに考え、重箱の隅を楊枝でほじくるホジクリエイターの私の頭は、梅雨どきでも能天気だ。