U2の歴史④
デジタルU2の時代
Lovetownツアーを終えると、U2はしばらく充電期間に入り、次なる展開を模索していた。世界を制したU2だったが、時代が90年代に入ると、急速に自分たちの音楽が時代遅れになっていると感じていた。またこれまで自分たちがやってきた音楽にマンネリも感じていた。ありあまる資産を築いたので、この後、グレイテスト・ヒッツ・バンドになって楽隠居する道もあった。実際、アダム(笑)はそうしようと提案し、ロックスターの妻であることに疲れたアリも賛同したと聞く。
が、U2はそうしなかった。この時、U2のメンバーはまだ30歳弱。引退して「あの人、昔、ロック歌手だったんだぜ」とダブリンの街中で後ろ指を差されながら生きるにはまだ若すぎたのである。
前のツアーでアメリカに滞在中、ヒッチハイクした車のカーラジオからDef Leppardの「Pour Some Sugar On Me」が流れてきて、「Where The Streets Have No Name」の倍近い音量に吃驚したボノとアダムは、次のアルバムはもっと音響的実験を追求した方がいいと考えていた。またこの頃エッジは、KMFDMやEinstürzende Neubautenなどのインダストリアル・ロックやThe Stone Rosesや Primal Scream などのマンチェスタームーヴメントに興味を持つようになっていた。そこでニューアルバムのレコーディングに入る前に、U2が小手調べに取り組んだのが次の2曲である。
Alex Descends into Hell for a Bottle of Milk / Korova 1
「時計じかけのオレンジ」の舞台のための音楽。明らかにインダストリアル・ロックの影響が見て取れる。後にこの曲は、サイバーパンク小説の祖、ウィリアム・ギブスンが監督し、キアヌ・リーブスと北野武が共演した映画『JM』のサントラにも使われた。
Night and Day
『Red,Hot&Blue』というエイズに対する意識を高めるためのチャリティ・アルバムに収録されたコール・ポーターのカバー曲。こちらはダンスミュージックの影響が窺える。ボノのルックスも『The Joshua Tree』と『Achtung Baby』の間という感じで、今見ると、なんともいえない中途半端感漂っているのが面白い。
そして90年10月、バンドは、イーノ、ラノワ、フラッドの3人を伴って、ほとんど事前準備をしないままま、ボウイのベルリン3部作がレコーディングされたベルリンのハンザ・スタジオに入った。何も素材がなくても才能のある人間が集まれば「何か」が起きるだろうという魂胆だったのだが、その見通しは外れて作業は難航。バンド内も「ヨシュア・トゥリーを切り倒したかった」ボノとエッジ、「その周囲に花壇を作ろうとしていた」アダムとラリーの二手に別れ激しく対立したーーが、その時、天の配剤のように「One」が生まれ、その後は順調に作業が進んだのだという。その様子はDVD作品『From The Sky Down』に詳しい。
Achtung Baby
1991年11月19日発売
UK2位 US1位
ボノ曰く「「他のバンドがまず女の子、次に世界、そして神について歌うのに、U2はまず神、次に世界、最後に女について歌った。そしてU2史上もっともシリアスな」アルバム。累計1800百万枚を売り上げ、ロック史上に残る大傑作である。なおタイトルは、メル・ブルックスの映画『ザ・プロデューサー』の中に出てくる台詞をスタッフのジョージ・オハーリーが頻繁に使っていて、そこから拝借した。「Baby」という言葉は、これまでU2が禁句していた言葉で、歌詞の中にさえ1度も登場しない。
アルバムに伴うZoo-TVツアーはこれまでのシンプルなステージと違って視覚や聴覚に訴える大がかりなものにしようということになり、ステージ上に巨大なテレビを設置し、天井に旧共産主義国の象徴だった東ドイツ製の大衆車トラバントを吊るし、客席の中程まで伸びる花道を設ける、というこれまでにない大規模で斬新なステージとなった。しかもツアー中もアイデアはどんどん積み重なっていって、ライブは知性と感性とユーモアを兼ね備えた、音楽界だけではなく、建築や美術の世界からも注目される一大イベントと化していった。
1992年12月、ボノがスーパーモデルのクリスティ・ターリントンと一緒にヴォーグの表紙を飾る。男性がこの雑誌の表紙になるのは25年ぶりのことで、自他ともに認めるダサいバンドのダサいフロントマンの大した出世だった。ちなみにボノはスーパーモデルが大好きで、彼女たちの多くと親交がある。アダムがナオミ・キャンベルと恋仲になったのもこの頃だった(結局、破局)。
またツアーの最中の1992年、U2は、イングランド北西部沿岸にあるセラフィールドという核燃料処理施設の建設に反対して、グリンピースとともに施設に上陸し、カメラの前でビートルズの「Help!」を真似るパフォーマンスを行った。示威行動とはいえ、U2がチャリティライブに留まらず、直接、政治行動に出たのは、恐らくこれが初めてだろう。
北米ツアーが終わって、ヨーロッパに戻り、次のヨーロッパツアーが始まるまで一息ついている間、U2はこの余勢を買って、当初、エッジとイーノでEPとして企画されていた作品をアルバムに発展させることにしたが、アルバム制作はヨーロッパツアーが始まっても終わらず、U2はライヴ会場とダブリンを飛行機で行ったり来たりしながら作業を行った。またエッジ、イーノと並んでフラッド初めてプロデューサーに名を連ねた。ちなみにアルバム制作において、ボノはウィリアム・ギブスンとチャールズ・ブコウスキーからインスピレイション得たのだという。ブコウスキーの『死をポケットに入れて』にはU2ライブを訪れた模様が記されている。
Zooropa
1993年7月6日発売
UK1位 US1位
タイトルは「Land of Zooropa」というボノが思いついたコンセプトからきており、冷戦終結とEU統合という2つの激変に見舞われた当時のヨーロッパの「混沌」色濃く現れた作品。現時点では所謂「練り上げられていない」勢いで制作されたU2の唯一のアルバムである。チャートアクションはアクトンよりもよく、七00枚以上のセールスを上げた。個人的にはノスタルジーとテクノロジーが融合したU2史上最も「美しい」アルバムだと思う。
後に『Zoo-TV~ライヴ・フロム・シドニー』として発売されたヴィデオ作品に収録するため撮影予定だったシドニー公演で、アダムが二日酔いで出演できなかったというハプニングがあったものの、ツアーは東京で千秋楽を迎え、大好評、大成功のうちに終わった(が、設備に莫大な金を注ぎ込んだだめ、ツアーからは収益がほとんど得られなかった)。
あまりにも急激な変化だったため、中にはついていけなくなったファンもいたようである。「U2は商業主義で染まった」と批判する者もいた。
が、それはU2の真意を判っていない人間の台詞だ。足かけ10年でロックスターの地位に上り詰めたものの、それはあまり居心地のいい場所ではなかった。名誉も莫大な金を得たものの、それ以上に誤解と難癖と嫉妬に晒された。自分たちは自分のたちの音楽を追求していただけ、ロックスターになったのは結果論、それにシリアスな歌を歌っているからって、シリアスな人間と思われても困る、四六時中、政治の話なんかしていないし、家族や友人との普通の生活を大事にしているし、時には恋に落ちることだってある。が、それをどうしても理解してくれないというのなら――こちらにも考えがある――ということでボノはザ・フライ、そしてミラーマン、マクフィストといった仮面を被り、素の自分を守ったのである。「仮面は人を自由にする」のだ。
なおシドニー公演を収録した『Zoo-TV~ライヴ・フロム・シドニー』は1995年、グラミー最優秀長編ミュージックヴィデオ賞を受賞した。
ツアー終了後、9ヶ月に及ぶ休養期間を経て、バンドはイーノを交えて再結集。その際、次はイーノ中心でアルバムを作ろうという計画が持ち上がったのだが、レコード会社は実験的なアルバムをU2名義で発表するこにとに難色を示し、結局、Passangersというバンド名でニューアルバムを制作することになった。このレコーディングの様子はイーノの『A Year』という本に詳述されている。
その間平行して行われた仕事が次の2つ。
Hold Me, Thrill Me, Kiss Me, Kill Me
映画『バットマン・フォエヴァー』のサントラ収録。プロデューサーは元ソウル・II・ソウルのネリー・フーパー。世界中で大ヒットした。
Theme from Mission: Impossible
休養中に楽器の勉強をし直していたアダムとラリーは、その成果をこの曲で披露。これも世界中で大ヒットした。
Original Soundtracks 1
1995年11月5日発売
UK12位 US76位
ピーター・グリーナウェイの『枕草子』のサントラになるという話が流れ、イーノお得意の架空のサントラという設定。ルチアーノ・パヴァロッティ、小林明子の参加、アダムの初ボーカルなどの話題にも事欠いていない。その後「Your Blue Room」「Beach Sequence」はイタリア映画『愛のめぐりあい』で、「One Minute Warning」は映画『攻殻機動隊』で使用された。
『Original Soundtracks 1』の後、U2はニューアルバムのレコーディングに入り、当時流行っていたブリットポップとクラブミュージックを融合させた新しいサウンドを作り出すことに取り組んだ。プロデューサーはフラッドとネリー・フーパーとハウイーBーーが、レコーディングは難航し、3人体制に馴染めなかったフーパーは早々と離脱。しかもマクギネスがレコーディング終了前にツアーの日程を組んでしまい、結果、バンドは不満足な状態でアルバムを発表せざるえなくなった。
またアルバム発売直前、洒落でKマートで記者会見を開いたのだが、これはU2が大企業に身売りしたという誤解を世間に与えてしまったーーこれがケチのつけ始めだった。
Pop
1997年3月3日
UK1位 US1位
先年亡くなった恩人のビル・グラハムに捧げられている。
駄作、問題作、意欲作と様々な評価がなされたが、とにもかくにもこのアルバムでしか聴けないU2の曲が詰まっているのはたしか。ファンの間でもダントツ不人気No.1であるが日本ではレコード会社が猛プッシュした甲斐あってよく売れた。
アルバムに伴うツアーはPopmartツアーと名づけられ、テクノロジーをありったけ注ぎ込んでZoo-TVを超えるものにしようと構想され、ステージには縦17m×横51mの大型スクリーンとレモン型のミラーボールが据えられた。が、ジャンルのクロスオーバーを好まないアメリカではチケットの前売りが伸びず、リハーサルではアルバム収録曲をステージで再現するのに四苦八苦、テクノロジーを駆使した機材は故障の連続。ラスベガスのツアー初日には演奏ミスが相次ぎ、メディアから酷評された。
来日も果たし『ニュース・ステーション』にも出演。ちなみに2003年から番組終了までニュース・ステーションのオープニングテーマはU2の「Where the Streets Have No Name」だった。
1998年3月21日、ヨハネスブルグ公演を最後にPopmartは終了した。商業主義やテクノロジーとの対峙というコンセプトは、Zoo-TVの二番煎じの謗りを逃れられず、達成感よりも徒労感がメンバーに残った。もしもインターネットが普及している時代にやっていたら、違った展開があったかもしれない。が、同業者の間では90年代のU2の評価は高く、ファンの間でも人気が高いのも事実。またステージ裏に大型スクリーンを設えるスタイルは、その後のライブのスタンダードとなった。