映画「まともじゃないのは君も一緒」レビュー
2021年公開の映画で、成田凌と清原果耶が主演。
撮影は2019年に行われたということなので、ぽっちゃりめの17歳の清原果耶の姿が見られる。
清原果耶が出演した映画をほぼ全部見たが、「青春18×2」を除けば最もよい映画だと思う。
基本ラブコメだが、会話劇が面白く、最後にほろっとさせる。
それだけでなく、しっかり提示される主題もあって、何より鑑賞後感がよい。
まずは脚本がよい
100分ほどの短めの映画だが、主要な登場人物は、予備校の数学講師大野(成田凌)とその予備校に通う高校生香住(清原果耶)、香住のあこがれの若手実業家宮本(小泉孝太郎)とその婚約者美奈子(泉里香)の4人だけだ。
主人公2人の家や家族は全く登場せず、予備校と主人公ふたりの立ち寄り先での会話のシーンがほとんど。
余計な登場人物や場所は思い切って省き、主役2人の会話を中心に、登場人物4人の会話と行動だけで構成され、会話劇の中で登場人物たちのキャラクターや心情を浮かび上がらせている。
その中で、「普通」とは何か、という普遍的かつ現代日本においてはかなりシリアスな主題がきちんと提示されていて、ただのラブコメ会話劇では終わらないのが、この映画のいいところだ。
この映画のメインともいえる大野と香住のかみ合わない会話は単純に面白い。
単純に「普通」が理解できず、ADHD的な匂いがプンプンする大野と耳年増で経験もないのに知ったかぶりで大野に対して自分は「普通」だと自信満々の香住。
女性から告白されているにもかかわらず、「それを定量的に説明してもらえないか」と見た目イケメンが真顔でいうシーンは面白すぎる。
それを自分よりずっと年下の女子高生香住に「なんで『僕のこと、どれくらい好き?』って普通に言えないの?」とつっこまれるているのに、大野はそれの何が悪いのという感じになるのは、もっと面白い。
こんな面白い会話を重ねられてくすくす笑いながらも、観客は「普通」ってなんだろうと考えさせられている。
この塩梅が絶妙なのだ。
キャスティングが絶妙
主要な登場人物は4人のみだが、そのキャスティングがぴたりとはまっている。
変わり者の予備校数学講師大野を演じた成田凌は、役者本人のかっこよさを完全に封印して、その表情と話し方で、ほぼキモいレベルの変人ぶりを醸し出している。
清原果耶演じる香住にいわれて渋々買ったポール・スミスのスーツを着て、待ち合わせをするシーンがあるが、モデル上がりの成田凌として着ればバッチリ似合ってしまうだろうブランドスーツを、髪型、立ち姿そして何よりも微妙な表情で、スーツのフィット感を抹殺して、「微妙な」というより「残念な」レベルの着こなしに見せてしまうのは、すごいといわざるを得ない。
普段着慣れていないブランドスーツを着せられている感がものすごい。
香住の大野に対するセリフで「顔もスタイルもいいのに、もったいないね。これで中身が普通なら彼女ができるのに」というのがあったが、それをこのただ立っているだけのシーンで体現している。
もうこの時点で、大野という役は成田凌以外考えられないと思わせてくれる。
この映画の香住役に清原果耶をキャスティングしたのは前田監督とのこと(本人談)。
映画「愛唄」に出ていた清原果耶を見てピンときたらしい。
この映画とは全く異なる役柄なのに、キャスティングした監督の勘とセンスはすごい。
「すごい人がいるらしいとは聞いていたが、実際に共演したらやはりすごかった。」と語っていたのは共演した成田凌。
17歳の時点で、業界的にはそういう評価になりつつあったようだ。
ただ清原果耶自身は、今まで演じたことのない香住という役柄に不安を覚えていたようだ。
これまではシリアスでセリフが比較的少ない役が多かったが、この香住はとにかくしゃべりまくるし、喜怒哀楽の感情を全て表に出すキャラクターだ。
そして、清原果耶のいわゆる泣きのシーンがひとつもない、清原果耶が出演した映画としては珍しい映画になっている。
(涙はこぼれないが、目がうるうるしているシーンは1シーンだけある。)
本人の不安とはうらはらに、清原果耶の演じる香住は生きている。
見ている側は、いつの間にか香住に引き込まれていってしまっていて、シリアスな役だけでなくコメディでも十分に存在感があり、この映画でも代替がきかないという印象を強く受ける。
でも、一番のはまり役は、小泉孝太郎かもしれない。
いいひとそう、まともそうというパプリックイメージの逆をつく配役で、一見まともそうだが、その実一番まともじゃない宮本という若手実業家役がこれ以上ないぐらいはまっている。
玩具メーカーの社長で、これからの教育について講演したり,本を出版したりしていてクリーンなイメージで、一見「まとも」そうな人だが、宮本の大ファンである香住をホテルに誘い出したが、大学生だと思っていた香住が実は高校生と分かって手を出すのをやめる。
そのことが婚約者の美奈子にバレても、平気で嘘をつき、翌日から何事もなかったかのように美奈子と一緒に教育支援活動を行っている様子をSNSに投稿する。
試写を見た小泉孝太郎自身が、この映画でいちばんまともじゃないのは自分が演じた宮本かもしれないといっていたほどだ。
宮本の婚約者役の泉里香もまた、はまり役だ。
優しそうでエレガントな美人で過剰すぎない色香も感じられて高嶺の花感がすごいが、親のいうことには逆らえず、「普通」であることからはみ出すことが出来ない弱々しさが感じられる役が見事にはまっている。
主演ふたりの演技はさすが
成田凌演じる大野の変人ぶりは本当に様になっていて、オタクっぽい早口しゃべり、他人の気持ちが分からない「無神経な」発言など、かなり誇張はされているものの、現実にもこういう人いるよねという感じをモデル上がりのイケメンが演じているというそのギャップがおかしくてたまらない。
そこを見せておいて、普段は見せない素直さ、切実さを見せるシーンでは、少年のような純朴な表情を見せるのだから、表情の作り方がうまい。
印象に残っているのは、切実に結婚したいと思っているが、結婚するために自分のどこが「普通」ではないか知りたい、それを教えてくれる、言ってくれる人が香住しかいないと香住に訴えるシーンだ。
このときの素直で真剣な目の表情は、香住でなくともぐっときてしまうかもしれないと思わせる。
このシーンは、大野に対する香住の気持ちがガラッと変わって、大野のことをいままで好き嫌いとかの対象として全く意識していなかった香住が、突然私もしかして大野のことを好きになってしまったかもと感じ始める重要なシーンだ。
その時の
①いきなり予想もしなかった「僕には君が必要なんだ」発言と初めて体に触れられた(両肩を強く握られる)ことに対する驚き
②眼鏡をしていないイケメン大野の真剣で切実な表情にドキッとしてしまう
③今まで感じたことない感情が自分に起こっていることに対する戸惑い
という香住の心の動きを表情と目の動きのみ、それもわずかな時間で見事に表現している。
いままでなんとも思っていなかった身近な異性に対して、意外性を伴ったちょっとしたきっかけで意識し出すというラブコメ王道パターンであるのだが、このシーンで特に重要なのは③の自分の気持ちに対する戸惑いの感情である。
これが香住の表情の最後にはっきり表れる演技が出来るのはさすが清原果耶というところだ。
この映画での清原果耶の演技は、その表情だけで香住の感情が表現されていて、次に香住がどんなことを言うのか観客が十分想像できるレベルになっている。
「普通女の子にそんなこと面と向かって言わないから」という前の表情とか、
「イケメンでスタイルもいいのに、もったいないね。」という時の表情とか、
これだけ表現しようとする感情に的確な表情ができるものかと感心してしまう。
このシーンで香住の心の動きが表情だけなのにはっきり示されることによって、大野に対しては上から目線で恋愛指南をしていた香住が同じ高校の面識のないカップルに、大真面目で「なぜ人を好きになるのか」を聞きに行くという行動の滑稽さが生きてくる。
大野に恋心を抱いているかもしれないと思い始めた香住が、大野に「これから付き合い始めた時の練習だ」といいながら、大野に自分の名前を呼び捨てで何回も呼ばせて、自分がキュンとするかどうかで大野に対する自分の気持ちを確かめようとするシーンがあるが、訳も分からず、うろ覚えだった香住の名前を連呼させられる大野は滑稽だし、香住はツンデレでいじらしい。
さらに、自分の憧れの宮本と婚約者の仲を裂くために、大野に「普通」を理解するための練習だと言いくるめて、婚約者の美奈子に接触させる。
香住はどうせうまくいくわけないと高をくくっていたが、最初大野は香住の予想どおり「普通」じゃないいつもの発言を連発しているが、その後なぜか香住といるときとは別人のように、自分の気持ちをさらさらと語り始め、すっかり美奈子といい雰囲気になってしまったことに動揺と嫉妬を隠せず、ふたりの邪魔をし始める香住に共感を持ち始めたら、すっかり観客は脚本と清原果耶の術中にはまっている。
この後、香住が、高校生カップルが働くスナックでエナジードリンク10本飲んで、完全に「酔った」状態でスナック常連のおじさん相手にくだを巻く香住の滑稽さと切なさが入り交じったシーンがあるが、その前の前振りが本当に有効で、香住のくだの巻き方が本当に切なく笑える。
個人的には、「酔っ払った」状態で泣きわめく清原果耶はなかなか見られないので貴重なシーンであり、「私どうしていいかわかんないよー」と泣き叫び、実家のスナックとはいえ完全にスナックのママさん状態の同級生にピシッとたしなめられ「そんなにいじめないでよー」とカウンターに突っ伏す香住がものすごく愛おしい。
劇中のスナック常連客のように「女は話を聞いてもらいたいだけなんだから」といって香住をなぐさめてあげたくなる。
映画の公開記念イベントで、小泉孝太郎が、この映画の試写を見て清原果耶演じる香住が成田凌演じる大野に心が傾いていく様子を見て、「香住ちゃんは俺のことが好きじゃなかったのか」と心がざわついた、こんなことは初めてだと語っていた。
これは、清原果耶が演じる香住に、共演者までもがすっかり引き込まれている証拠であり、脚本のうまさと清原果耶の演技あってのことだと思う。
ありそうでなかった「普通」というテーマ
普遍的かつ、特に日本においてみんな悩んでいるシリアスなテーマ「「普通」とは何か?」ということをラブコメの主題にして、かつそれが成功しているという珍しい映画だと思う。
映画のレビューでも、この「「普通」とは何か?」ということに関する感想が想像より遥かに多い。
それだけ、現代の日本においては切実な問題なのだと思う。
「普通」が単純に理解できないがゆえにコミュニケーションがうまくとれず友達も出来ない大野。
他人の陰口にしか興味がなく、常に陰口の相手を探している学校の友人たちを嫌悪しながらも、それを表に出さずに、そのグループに加わっている香住。
「普通」であることに共感できず、「普通」であることに居心地の悪さを感じながら「普通」であることを装っているが、薄々自分が「普通」ではないことに気づいているものの、「普通」であることから抜け出せないでいる。
大野の方は、友達もいない寂しい状況から抜け出して結婚したいと思うようになり、自分が「普通」じゃないことを指摘してくれる唯一の相手香住を頼るようになる。
「今変わらないと、ずっとこのままになってしまう」と思って、頼る相手が自分よりずっと年下の予備校の生徒である女子高生香住というところが「普通」ではないが、一見最も「普通」じゃない大野の発想は、かなり健全で前向きだ。
それに対して、香住の方はなかなか面倒で、香住が女性で、周囲の同調圧力が強く、「普通」でないと男性よりも生きづらいことが分かっているから、「普通」を装うことをやめられないでいる。
「普通」を装うことに居心地の悪さを感じていながら、「普通」でなくなることで生きづらくなってしまうことにおそれを感じているという、なんともアンビバレンツな状況だ。
大野より自分は「普通」だと思っている香住だが、宮本の素晴らしさを大野に対して熱弁するが、宮本が言っていることが上っ面だけの美辞麗句で具体性がないことを大野に指摘され、反論できないでいる。
宮本を喫煙所で待ち伏せしてファンレターを渡したり、宮本と婚約者の美奈子との仲を裂こうとして、大野を差し向けたりするなど、その行動は「普通」じゃないし、「まとも」でもないが、そのことに香住は気づいている様子はない。
香住が大野に言っていることと、自分が実際にやっていることの矛盾がコミカルに描かれているが、この「普通」じゃないのに「普通」でいなければいけない矛盾と葛藤が多くの人たちが抱えていることで、この映画を見る人に響いているのだろう。
「普通」と「まとも」
劇中で「普通」という言葉が54回も連呼されているにもかかわらず、映画のタイトルは「まともじゃないのは君も一緒」(劇中では「まとも」という言葉は2回しか出てこない。)。
「まとも」と「普通」という言葉は意味が似ているようでかなり異なる。
「まとも」という言葉にはよい意味しかないが、「普通」という言葉にはネガティブな意味を含んでいる。
宮本のファンである香住をホテルに誘っておきながら、以前の変わらず婚約者の美奈子と仲の良さそうな写真をSNSに載せている宮本に対して、美奈子の父親のビシネスで結びついているなら、そんなことは「普通」にあることじゃないの、と力なく言う香住に、
「君のいう『普通』は、何かを諦めるための口実なのか。」
「『普通』なんかどうでもいい、僕は君のことを傷つけた宮本を絶対に許せない。」
という大野は、一般的には「普通」の人じゃないかもしれないが、ここで言っていることはまともすぎるほど「まとも」だ。
こんな「まとも」でいいことを言っているのが、みんながいる予備校の教室で、このセリフの前に、まあまあ大きな声量で「肉体関係」という言葉を連呼しているという状況にじわじわくる。
大野も香住も「普通」じゃないかもしれないが、十分「まとも」な感覚を持っており、映画のタイトルは「まともじゃないのは君も一緒」ではなく、「普通じゃないのは君も一緒」のはずだという意見には賛同するが、映画のタイトルから映画の内容が見えづらいことは、あまり変わらないことが悩ましいところだ。
自分ならば、かっこ付きの「普通」にして、「『普通』じゃないのは君も一緒」にしたいところだが、音だけだとこのかっこ付きの「普通」の意味合いが伝わらないところが難しい。
制作者側も悩んで「まともじゃないのは君も一緒」に落ち着いたらしいが、映画の内容からすると、「まとも」ではなく「普通」の方が、この映画の主題を正確に表していると思う。
大野と香住の「気づき」
大野と香住が、森の中で会話をするシーンでこの映画は終わるが、森の中での会話の内容と二人の雰囲気がとてもよく、この映画の鑑賞後感の良さにつながっている。
二人の会話は相変わらずかみ合っているようでかみ合っていない。
大野は「一生分の経験をした」といっている割には、香住が自分のことを「好き」と言っている「好き」の意味を十分理解できないでいる。
香住の方は、自分が宮本に惹かれた理由が、自分が受験に失敗した時に自分に言ってほしいことを言ってくれる人が宮本だったことにようやく気づいたし、大野といる時は自分に素直になれて、その意味で「好き」と素直に言えるようになった。
少なくとも大野といる時は、香住は「普通」でいることの呪縛から逃れることができるようになった。
お互いの理解はまだまだこれからだが、お互いにお互いのことを理解しようとしていることがこのシーンから伝わって、観客は温かい気持ちになる。
現実世界では、みな自分のことで忙しく、「普通」じゃない人は理解するのに時間がかかる面倒な人だから、劇中の大野がそうだったように、周囲から敬遠され距離を置かれるだけなのだ。
現実世界をちょっとだけ離れて、他に誰もいない森の中で「おかしなふたり」が素直な気持ちを語り合って、お互いの距離を近づけようとする、そんな映画の中にしかないような空間を描けるのは、やはりフィクションである映画のいいところだ。
とても後味のよい映画だった。