ドラマ「マイダイアリー」第3話レビュー
■「あくびと信頼」
「微妙」という感想に加え、「奇妙」にも感じた第2話を経て、まひるメインの第3話を見たが、だいぶ「普通の」ドラマに戻った印象はある。
ちょっと、いや、かなり癖のあるセリフは相変わらずだが、前回に比べれば登場人物の行動の奇妙さは、だいぶ払拭されている。
■まひるが優希の部屋を訪ねた理由
前回の記事で、まひるが優希の部屋を訪ねた理由が気になると書いたが、その理由はすぐ分かった。
まひるは、優希と広海が別れたかどうかを聞きに来たのだった。
まひるは「風の噂に聞いた」といっていたが、このことに気づく可能性があったのは優希に会った虎之介(別れ際に「広海にもよろしく」と言ったら優希の反応が微妙だった)だけなので、まひるは虎之介に聞いたのだろう。
社会人になってからも、まひると虎之介はそういうことについて連絡を取り合える仲だということになるが、第4話の予告を見て「あ、そういうこと?」と思ったが、その答え合わせは次回以降になるだろう。
まひるの聞き方が「本当に徳永君と別れちゃったの?」ということは、大学を卒業する時点で優希と広海の関係は、端から見ても、あまりよくはなかったのかもしれない。
これを聞かれた優希の反応がまた優希らしく、誰から聞いたとも尋ねずに「まあね」曖昧な答え。
答えをはぐらかしいるというよりは、自分でも自分の状況と気持ちがつかみ切れていないので、ああいう曖昧な答えになってしまったのだろうと思う。
このドラマの脚本家曰く「普通って何だろう」というのがこのドラマのテーマのひとつらしい。
優希と広海が恋人同士なのは違いないが、その関係は周囲が想像するような大学生同士の恋人関係とはかなり違っていると思われる。
それがどう違っているのか、そしてそれが初回冒頭にあった優希の涙の理由につながっていると思っている。
初回冒頭の優希と広海のシーンが「このドラマの要」らしいから、気になる。
■まひるのトラウマ
制作発表記者会見のときから気になっていたまひるのトラウマが明らかになった今回だが、そのトラウマが思いのほか重かったのが意外であった。
小学校の仲の良かった同級生の親に身代金誘拐未遂に遭っていたとは、なかなかヘヴィーだ。
誘拐未遂っていうだけで十分トラウマなのだが、その相手が仲の良かった同級生の父親とは・・・
相手が完全に悪者で、憎める相手ならまだよかったのに、その時の同級生の父親の状況と気持ち、何も知らなかっただろう同級生の男の子のその後の想いが、大学生になった今なら分かってしまうだけに、他人と仲良くなること自体に身構えてしまうようになった自分自身にまひるは悩んでいるのだろう。
偶然目に入った駅で車から降ろしてもらって、逃げるように駆け出したその途中で振り返って見た同級生の男の子の表情は、きっと一生忘れることができないだろうな。
これまでの展開を考えると、まひるのトラウマがここまでヘヴィーなものになるとは全く予想していなかったが、ここまでまひるのトラウマをヘヴィーなものにしたのはなぜだろうか。
まひるの行動で引っかかったには、自分のトラウマの告白の相手。
あの内容であれば、仲の良い女友達2人だけに告白しそうなものだが、友だちになってまだ日の浅い広海と虎之介も加わっている。
あの場に4人がそろって同席する設定は、あまり違和感ないように作られているが、よく考えると結構不自然な状況だ。
前回までで、このドラマの脚本家は登場人物に言わせたいセリフが先にあり、それを言わせるためにストーリーを考えているのではと感じていたが、たぶんこれもそのパターン。
まひるのトラウマがあのぐらいヘヴィーでないと、広海の
「人生の道の途中に乗り越えられないくらいのものを置いたのは誰って。
勝手に置かれたものになぜ立ち向かわなきゃならないのかな。」
というセリフは出てこない。
そもそも広海がまひるのトラウマ告白の場にいないと、言うタイミングがない。
広海のこのセリフは今回のキーになるセリフであり、広海が帰国したことと深く関わっているはずなので、このセリフでないとダメなのだろう。
虎之介も同様で、虎之介があの場にいないと、そのあとの「手だけRIM様」とそれをきっかけとしたまひるとの展開につながらなくなるので、同席は必須なのだ。
■手をつなぐのは信頼の証
この告白の場で、まひるが自らの生い立ち的なことを話すシーンがあったが、お金持ちの子供が入るような小学校(おそらく私立の)に通っていたまひろが、なぜ「普通の」大学の教育学部に入ったのかがちょっと気になった。
まひるがああいうお金持ちの家なら(どうもひとり娘らしいし)、系列の学校が大学まであるような私立の学校に通っていそうなもので、そうなると特別の理由がない限り系列の大学にエスカレーター式で進学しそうだ。
しかし、まひるが入学時に「大学で友だちできるかな」と心配していたように、どうもそうではないらしい。
たまたま系列の大学に教育学部がなかったということも考えられるが、まひるが教員を目指した理由も気になるところ。
まひるは、優希と同じく教員になったのだろうか。
それはともかく、結局あの駅の改札の向こうにひとりで行こうとして行けなかったまひるの元に優希と愛莉が向かって、何も聞かずにまひるの手を取り「帰ろう」というシーンはよかったな。
推しの卒業ライブに行けなかったまひるのために、名前も知らなかったはずのマイナー男性グループのライブに行き、まひるの代理でまひるの推しと握手をしてきて、まひると「間接握手」ならぬ「手だけRIM様」をする虎之介のやさしさよ。
正直その発想はなかった。
相手の気持ちを想像して、どうしたら相手が喜ぶか真剣に考える人でないとなかなかできない。
恋愛だけでなく、人の心を動かすのに意外性って大事だね。
まひるにとって虎之介は、「推しは探すものではなく、気がついたらそこにあるもの」ということになっていくのかな。
まあ、ああいうトラウマがあり、同い年ぐらいの男性と近しくなることに特に身構えていたまひるにとって、虎之介のサプライズは、虎之介を意識するきっかけとしては十分すぎるだろう。
今回出てきた、2つの手をつなぐというシーンは、信頼の証としての行為として表現されているような気がする。
■繊細な芝居を要求されるドラマ
このドラマ、セリフは少なくはないが、ゆったりとしたテンポで余白が多い。
日常を扱ったドラマの中で、登場人物本人すらよく分かっていない微妙で繊細な感情の動きは、セリフそのものではなく、言葉の言い方、トーン、表情、仕草で表現することになる。
芝居のあまり上手ではない役者さんがこのドラマをやると、たぶん惨事になる。
それで芝居のできる若手の役者を集めてきたのではないか、と思っていたのだが、このドラマをここまで見て、それは確信になった。
特に、優希が一番難しい。
登場人物の中でも、感情、表情の変化が一番少ないキャラで、自分自身でもよく分かっていない気持ち割合が多く、それがまた微妙な変化をしていっている。
ここまで優希があまり魅力的なキャラクターに見えないのは、単に表情の変化が少ないからだと思う。
割とおとなしいというか、感情の起伏の少ない役を演じることが多かった清原果耶の中でも、最も表情の変化に乏しい役なのではないか。
その中で、本当に微妙な変化を付けていかなければならないので、演じる方は大変だと思う。
このドラマでは、優希の目の表情が気になっている。
まぶたは閉じ気味というか、ちょっと眠たそうな目に、ちょっと重そうな表情に見えるアイライナー。
このあたりは、優希のキャラクターを考えて、当然意図的に作っていると思われるが、清原果耶の演じる優希の表情がこれでよかったのかは、ドラマを全部見てみないと分からないが、多分これで正解なのだろう。
そうすると優希があの表情になるこれまでの経緯、過去が非常に気になる。
今のところ、登場人物の中でも優希に関する情報は少ない。
まだ広海の方が情報は多い。
優希の場合、分かっているのは、
○母親に「やさしい人になりなさい」と言われて育った。
○母親は既に亡くなっていて、一人暮らし。
ぐらいだ。
優希は毎回母の遺灰に話しかけているシーンが出てくるが、父親の影は全く見えてきていない。
離婚したのか、死別なのか。
きょうだいもいなそうだし、ひとりっこなのか。
そのあたりは、ドラマの後半で明かされてくるのだろう。
■次回は愛莉メイン
予想どおり、次回は愛莉メインの話らしい。
そして、次々回はいよいよ広海の話かな。
番組の最後、次回につながるシーンと予告を見て、驚いた。
ええ、愛莉の矢印はそっち向きなの?
ウェブでは予告の30秒バージョンもあるが、そちらでは現在の優希が愛莉から送られてきた自分の似顔絵を見て「うそでしょ?」と、表情に乏しい優希としては最大限の驚き方をしている。
そら、優希は全然気づかないだろうな、自分の感情にすら鈍感なのに。
これを見て、台湾映画「藍色夏恋」(原題「藍色大門」)のことを思い出した。
清原果耶が出演した映画「青春18×2~君へと続く道~」の関連で見たのだが、愛莉は「藍色夏恋」の主人公の女子高校生モンなのか。
自分の感情が自分でもよく理解できていない青春のもやっとした感じは、「藍色夏恋」に通ずるものがある。
このドラマは、まずリアルタイムでテレビで見て(もちろん録画もしてある)、そのあとでTVerの解説放送版の方で細かいところをチェックしている。
なぜ解説放送版かというと、画面でははっきりしないところが音声で解説されていることがあるからだ(脚本のト書きの部分にあたる)。
これで、優希が話しかけている小さい小瓶の中身が母親の遺灰だということがはっきりした。
次回の予告を見た後で、第3話の解説放送版をチェックしていると、気がついたのは、今回、5人でどこかに遊びに行こうという話になったとき、優希のセリフで
「5人って奇数だし。」
「遊園地に行ってふたり乗りのやつ乗るときひとり余るし。」
「コーヒーカップってだいたい4人乗りでしょ?
残ったひとりは孤独に回り続けることになるし。」
というのがあった。
5人で行ってひとり余らないようにコーヒーカップ乗るんだったら、2人と3人に分かれて乗ればいいのだが、優希は「ひとりは孤独に回り続けることになる」と言う。
これは、男女5人が出てくるこのドラマで誰かが「ひとり余る」ということの伏線だったのか?
その「ひとり余る」ことになる人物が愛莉ということなのか?
さらに、スイカパーティーで皿を片付ける優希と愛莉の手が触れるシーンがあったが、なぜこのシーンがあるのかちょっと引っかかってはいたが、ああ、これも伏線だったのか。
第2話で虎之介が愛莉に「長谷川さんって実は恋愛マスター?」と聞くシーンでの愛莉の答えも引っかかっていた。
「私にとっての恋愛はどこにあるのか、
ほんとにあるのかさえわかんないって感じっていうか、
好きが遠いっていうか」
脚本の兵藤るりが、「ちょっとしたことが後々に作用してきたりするので、お見逃しなく。」といっていたが、こういうことか。
そして、これが「普通って何?」「マジョリティとマイノリティ」というテーマにつながっていくわけですね、兵藤さん。
こうなると、これまで以上にこのドラマのセリフで引っかかったものは要チェックだな。
まひるのトラウマの件いい、一見日常系でほのぼの系かと思わせておいて、かなりヘヴィーなネタを次々放り込んでくる。
この分だと、広海のギフテッドの件もどう扱われるのか予想がつかないが、もっと恐ろしいのは、優希の過去だ。
「やさしい人でありたいと思っているだけなのに。それだけなのに」と言っておきながら、ずっとあんな表情をしている優希。
母の遺灰を小瓶に詰めて、毎日それに語りかけている優希。
友だちが自分の部屋に遊びに来たときは、その小瓶をクローゼットにしまったということは、自分の母親のことをまだ友だちには話していないということになる。
それはいつ友だちに明かされるのか?
社会人になった今でも明かしてないのか?
広海にかけた「いつか乗り越えなきゃなってなったときは、肩車ぐらいならしてあげるよ」も気になる。
広海の様子からして、広海の抱えているものが、誰かが肩車すれば乗り越えられるぐらいのものとは到底思えないのだが、冗談めかして優希はそんなふうに声をかける。
優希にとって広海の抱えているものが、誰かが肩車すれば乗り越えられるぐらいのものに感じられているとすれば、優希には乗り越えることすら諦めなければならないほどの何かを持っているのだろうか。
でも、一番気になるのは、番組の冒頭に毎回出てくる優希の「人生の日記」という言葉が気になる。
実は、「ちょっとしたことが後々に作用してきたりするので、お見逃しなく。」と言っていた脚本家が例示として挙げていたのが、この「人生の日記」なのである。
23歳ぐらいの優希が20歳の頃の自分を振り返って「人生の日記」という言葉を使うからには、相応の理由、経緯があるに違いないとは推測できる。
優希の言葉、行動からすると、母親の死が優希のその後に大きく影響しているのは間違いないと思うが、問題は、母親と死別という形で別れることになった過程で、その過程が「普通」ではないから「人生の日記」なんていう言葉を使いようになったのか。
どういう生い立ちならば、優希のような大学生になるのか、その過去設定が気になっていたが、虎之介の失恋はほんの軽いジャブで、2発目のまひるのトラウマがいきなりヘヴィーになってしまい、3段目の愛莉の悩みは5人の関係に大きく影響するという点でまひるのそれよりさらに重たい。
回を重ねるごとに登場人物の抱えているものがどんどん重くなっているけれど、これが広海、そして優希になったらどうなってしまうのか、ちょっと恐ろしくなってきた。
23歳ぐらいの優希がほんの2年前を振り返るときに「人生の日記」という言葉を使っているならば、このドラマの展開で本当に心配しなければならないのは、こうして社会人になった友だちと会っていく現在の優希なのか?
このドラマを最終回まで見終わって、「見なければよかった」と後悔するような展開にはならないと思うが、このドラマのこれまでの雰囲気に流されず、相当ヘヴィーな結末があるかもしれないことを少しだけ覚悟しておいた方がいい気がしてきた。
なんて思っていたら、当の脚本家からポストあり。
「脱稿したので、改めて。
派手さはないかもしれないけれど。
明日くらいは生きてみてもいいかもしれない、
日曜の夜にそんな温かさを与えられる作品になったらいいな
と思っています。」
「派手さはない」というのはそのとおりですが、月曜の朝を控えた日曜の夜に視聴者に与える温かさが「『明日くらい』生きてみてもいいかもしれない」ってのは、ちょっと控えめ過ぎないですかね。
「『明日くらい』生きてみてもいいかもしれない」ということ思えて、温かさを感じられるっていうのは、相当重いものを抱えた状態だと思うのですが、考えすぎでしょうか。
やっぱり、このドラマの結末が不安だ。
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