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映画「余命10年」レビュー

原作があるとはいえ、そのままズバリの身も蓋もないタイトルだ。
これだけで大体の展開の予想は付いてしまう。
「青春18×2」を見ることがなかったら、120%触れようともしないタイトルだ。
 
この映画には原作となった小説はあるが、原作小説の映画化というよりは、原作者の映画化といった方が正確らしい。
原作者の映画化とはいえ、当然映画化に当たって物語の改変は加えられている。
脚本は、NHK朝ドラ「ちゅらさん」の岡田恵和と渡邉真子の共同脚本。
藤井道人監督は脚本には加わっておらず、監督のみ。
 
タイトルの「余命10年」は主人公茉莉(まつり)のことだ。
大学生のときにPAH(肺動脈性高血圧症)という難病のため、2年間入院して2回手術をし、ようやく退院したという設定になっている。
大学は中退して卒業できなかったという設定になっているが、大病を患って入院が長引くような場合は、普通休学にするのではないかな。
ま、中退復学だと「余命10年」の難病患者の就職というエピソードが入れづらくなってしまうか。
 
この映画の物語のポイントは、20歳になったばかりの主人公が「余命10年」という中途半端な余命が残されてしまうという点だ。
PAHという病気は、軽度の場合は、一見普通の生活が送れるように見えるが、服薬必須、行動制限があり、映画の中の茉莉のように「普通の」仕事をすることが難しい。
映画の中で主人公の茉莉が冗談めかして「暇すぎて死んじゃう」と語るシーンがあるが、制限が多すぎるがゆえの結果である。
「座して死を待」たなくてはならない状況なのだ。
「余命10年」の意味は、10年後の生存率が極端に低い、つまり長く生きられても10年という意味である。
明日の日常が保証されていないという点では、どんな人でも同じだが、10年以上はほぼ確実に自分の命が尽きているということを背負って20歳の主人公がこれから生活していかなければならないという特殊な状況だ。
主人公の茉莉は、自分のこの状況を半ば諦めているが、この状況で、人との関係性をどこまで構築すればいいのかというのがこの物語の核心だ。
1:全てを知っている自分の家族。
2:茉莉が大病を患っていたことを知っているが、退院して、見た目は普通に見えるから、直ったと思っている大学時代の友人たち。
3:茉莉が病気だということさえ知らない中学校時代の同級生たち。
 
10年後には、自分との関係が否応なく断ち切られてしまうことが分かっているなら、あえて今以上に関係性を深めようとは思わないだろう。
関係性が深ければ深いほど、それを断ち切られるのは辛い。
映画の中の茉莉も積極的に人との関係を深めようとしていないし、恋もしないと決めている。
当然の防御反応だ。
 
1の最も茉莉と関係が深く、の身近にいる家族との関係が丁寧に描かれているところが、この映画の評価ポイントだと思う。
家族は気をつかって、病気のことにはあまり触れない。
茉莉は、冗談めかしてしか病気のことを語らない。
互いが相手を思っているからこそ、正面から向き合えないでいる。
 
一番やっかいなのは2の中途半端に関係が深い大学時代の友人たちだろう。
茉莉が入院したことも知っているが、「余命10年」であることは知らない。
退院したから病気が治っていると思っている。
「余命10年」の人が、「人生これから」と言われるのはどういう気分だろう。
だからといって、自分が「余命10年」であることを他人に言えるだろうか。
悪意のない憐憫ほど本人にとって辛いものはない。
自分が「余命10年」であることを言わない、言えないことによって、嘘をつかざるを得ない状況になっているシーンがいくつか映画の中に出てくるが、それがまた辛く、切ない。
個人的に一番切なかったのは、茉莉がすでに好意を持っている和人から交際を申し込まれたが、それを断った後の場面だ。
それですっかり落ち込んでいる茉莉に、大学時代の友人から同じ病気を持つ男性を紹介される。
半分やけで「いいね、紹介してよ」と答えるものの、結局自分で自分を傷つけてしまう結果となり、ひとりで泣きながらやけ食いする。
体をことがあるので、いつもは飲まない酒まで飲んで、結局吐いてしまう。
自分の病気のことは知られたくはないが、それを隠すことによって起きてしまう辛い出来事。
相手に悪気がないから、当たるところがない。
本当に見ているだけで辛いシーンだった。
 
3の分類の人たちは基本的に接触がないので、人間関係をこれから構築するということはない。
ただ、映画の中では、主人公の茉莉が覚えてもいない同級生だった和人と再会し、関係性を深めることになってしまい、3から2の関係になってしまう。
ここが、物語の主軸になる。
 
恋愛が軸にはなっているが、難病患者本人、その家族、関係者の心情、想いを丁寧に描いているところが、この映画が評価されるべき点だと思う。
個人的には家族の想いが丁寧に描かれているところがよい。
茉莉が和人に自らの「余命」を告白し、別れを告げた後、母親に抑えていた自分の感情を吐露するシーンは、思い出すだけでちょっと涙腺が緩む。
病気になった娘に対して、何もしてやれない母親は、娘の話を聞いて、謝るしかない。
 
恋愛は、茉莉・和人ともに考え方、行動を変えるきっかけにすぎないとさえ思える。
和人にとって茉莉は単なる恋人ではなく、仕事を失い絶望していた自分を今の自分(自分の店を持てるまでになった)に導いた特別な存在となっているところも映画のポイントだ。
原作だと、主人公は自分の「余命」を恋人に告げることなく、自ら別れを選択している。
そして別れを選んだ自分の選択に間違いはないと自分に言い聞かせている。
この点は映画化に当たって改変されている点のひとつだが、原作は現実的な選択だ。
実際、終末期の自分の姿を恋人に見せたいとは思わないだろう。
映画の中でも、茉莉は病状が悪化して入院するがすっかり痩せてしまっている。
茉莉を演じた小松菜奈はこのシーンのための6kg減量したそうだ。
この映画の小松菜奈の演技は、評価されてしかるべきだと思う。
 
個人的に印象的だったのは、茉莉が病床で今まで撮っていたビデオの動画を消すシーンだ。
映画の冒頭に登場したビデオカメラ。
その映像は、茉莉の記憶そのもの。
茉莉がいままでの自分の思い出を振り返るシーンをビデオカメラという小物を使って表現している。
なぜ茉莉はビデオを消したのか。
ビデオを残すのは、後で見るために残しておくため。
自分の「余命」がいよいよ少なくなっていることを感じている茉莉は、これまでの思い出を遡りながら動画をひとつずつ消していく。
ビデオカメラの電池残量が少なくなっているのは、茉莉の「余命」がわずかであることの暗喩。
自分が撮った映像は、残していても仕方がない。
ただ、最初に夜桜の下で和人を撮った映像だけは消せない。
和人と出会ったことは捨ててしまえない、それだけ想いが強くなってしまった証だ。
 
そのあとが、ちょっとずるすぎる。
茉莉は意識が遠のいていく。
人は死の間際、走馬灯のように今までの出来事が脳裏に浮かぶという。
20歳にして「余命10年」となった茉莉が見たのは、過去ではなく、自分が病気でなければたぶん普通にあっただろう未来の出来事。
ビデオの動画は新しい順で観客に見せているが、未来の出来事は時系列順に見せている。
それも、ビデオで茉莉が撮った出来事とパラレルで自分が主人公の出来事だ。
 水着で和人と一緒に海に入り、はしゃぐ茉莉
 見上げるだけで姉には連れて行ってもらえなかったスカイツリーも和人と
   一緒に登っている。
 姉が結婚式を挙げた教会で、自分も結婚式を挙げている
 和人との子供が生まれ、公園で遊ばせている茉莉と和人
これはずるいよ。
「普通の人」には当たり前にあるだろう日常が今際の際に夢でしかみられないなんて。
それも全て和人と一緒だ。
和人と過ごした時間を時系列とは逆順でビデオの映像として見せておいて、未来の出来事は時系列の点描で見せる演出は鮮やかとしかいいようがない。
そして、切なすぎる。
 
この映画の藤井道人監督は、監督を引き受ける条件として、季節をその時期に撮影したいから、撮影期間1年という条件をつけたらしい。
四季の映像がとても美しいが、特に桜のシーンが美しい。
決して長くはない時間の経過をリアルな四季を背景として見せる。
 
この国では「風立ちぬ」の時代から余命もの、難病ものの物語が多く、特に映画は最近この手の映画多い。
物語が強いので、それなりに映画を作っても、そこそこの映画になってしまうし、客も手堅く呼べる。
その物語の強さに負けずに、よい映画にしようと思ったら、作り手の相当強い意志が必要となる。
1年を通じての撮影期間を条件とした藤井監督には、その強い意志が感じられ、その結果も十分に映画に表れていると思う。
 
この映画は、「結局主人公が死んでしまうだけ」のお涙頂戴映画ではなく、主人公が「余命10年」をどうやって生きたかを扱った映画だ。
そのことは、映画のラストシーンに示されている。
病床で和人が茉莉の手を取り、「がんばったね」と語りかけ、茉莉の意識が戻ったように見えたシーンから数ヶ月後、季節は春、桜の季節。
墓地の遠景から始まる。
茉莉が書いた小説「余命10年」が本屋に並んでいて、それを手に取る和人。
手には花束。カーネーションなど白い花の花束だ(おそらく墓前に手向ける花)。
茉莉のビデオで茉莉が消せなかった映像を撮った桜並木を通りかかる和人。
あの時は夜桜だったが、今は朝のようだ。
茉莉の使っていたビデオカメラで満開の桜を撮る和人。
あの時と同じように突風が吹く。
その先に和人と並んでうれしそうに歩く茉莉の姿が見えたような気がした和人。
それとは反対の方向に、和人は歩いて行く。
そこでこの映画は終わっている。
茉莉が亡くなったことを示す直接的なシーンを入れなかったのは、「生」のほうが主題だからと解釈している。
 
人は誰でもいつかは死ぬ。
死ぬまでの「余命」をどう生きるか、それがその人が生きた価値。
その意味で、この映画のタイトルは「余命10年」以外にあり得ない。

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