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自然と私

突然ですが、私は虫が嫌いです。特に、足が大量にある感じのお虫さんとか幼虫さんなんかがほんっとうに苦手です。ですが、常日頃から自然豊かな場所への憧れがあって、大学の学期中はよく人が少ない田舎に泊まりたいなぁとよく考えます。この場合には木がたくさんある”田舎”を想像しているのですが、他にも海が好きで、泳ぎに行くというよりは写真を撮ったり一人でチル(何もせずにボーッとすること)したりするためにたまに江ノ島に出かけます。

虫が嫌いなのに、田舎で過ごしたいと思うことには正直矛盾があるなと思います。最近、この自分の田舎への憧れはなんの影響なのかを考えるようになりました。

一つは、ドラマの影響。

この場合の田舎は、必要のない時には虫は出てこない、作り込まれた”田舎”なんですよね。自分の好きな映画のいくつか、例えば「溺れるナイフ」「海街ダイアリー」なんかは、海が近い田舎が舞台です。この映画の中の、人と人との繋がりとか、自分一人になれる場所があること、空気が美味しいんだろうなぁってところや、淡い色彩に見惚れて、憧れが募りました。実際のその場所は映画とは違うんだろうけど、行ってみたい、なんなら住んでみたいと本気で思います。

二つ目に、逃避する先として田舎を捉えていること。

自分はそこまで都会に住んでいるわけではないのですが、大学までは渋谷・新宿を経由するので、否が応でも都会を意識しますし、レポートや試験の量が多く授業貢献を求められる授業スタイルなので、週5日の授業にかなりストレスがかかります。そんな時、”なんのストレスもない”、”穏やか”で”質素”な田舎という二項対立が自分の中で成立します。田舎に行けば全ての問題が解決されるような、気楽な概念としての田舎が生み出されるのです。そこには、虫がいるとか、人が少ないことによる弊害とか、性別役割分担による田舎特有の生きづらさとかは全て捨象されます。

つまり、私が憧れているのは、田舎ではなく、”田舎”というイメージ/ 概念 なのではないかと考えるようになりました。昨日読んだ本「羊飼いの暮らし」では、現代社会が「どこかへ行くこと」「人生で何かを成し遂げること」の大切さに取り憑かれていて、田舎とは、都会化、産業化した社会によって築かれた逃避する先としてのイメージだと書かれていました。確かに、、、と納得してしまいました。都会にいるからこそ、田舎に行きたくなる。でもその時の田舎とは、都会の対極にあるもので、都会の視点から描かれる現実味のないものかもしれないと思ったりしました。

都会で形作られた田舎のイメージを持って田舎に行くことが悪いことだとは思いません。ですが、観光業が賑わうあまり、元々住んでいた人たちが家賃の高騰によってコミュニティから排除されてしまったり、ごみや汚染問題の一因になる可能性があるそうです。今あるコミュニティを尊重しつつ、あくまでお邪魔させてもらう形で訪れられたらなぁと思います。



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