春学期13週目 卒業シーズンの到来/アメリカ社会学留学
アメリカのマサチューセッツ大学アマースト校(UMass Amherst)に交換留学しているサリです。社会学とジェンダー研究を専攻していて、アートを作り、核廃絶のための活動に片足を突っ込んでいます。あと1ヶ月もせずに学期は終わり、私の留学も終わります。ここでの自分の学びや感覚に溺れないように、こうしてアウトプットしていこうと思います。
今回の目次は、こちら!
伝わる人は、必ずいるということ
このnoteは不思議なもので、自分の思考の消化のために続けているんだけど、それが来年UMassにくる日本の大学生との交流のきっかけになったり、日本にいる後輩ちゃんのインスピレーションになれたり、日本語を話さないアメリカ人の友達がわざわざgoogle翻訳で読んで感想をくれるものになったりと、自分の想像を上回る機能を果たしてくれている。
それは、自分の存在が歓迎されていると感じられない場所にもいるからこそ、より強く深く、自分に響くことでもある。こうしてややひっそりとつけている記録を読んで、リアクションを残してくれたり、応援してくれる人がいるということ。限りなく嬉しいなと思うのだ。
自分の立場を使って、できることをやること:パレスチナ連帯を式典で示す憧れの教授
四月二十六日。私は素敵な社会運動に出会うと、どうしようもなくインスパイアされて度々涙する。それが今日起きた。
学長の就任式に合わせて行われた、パレスチナへの連帯を示したラリーの様子。私が注目したのは、この投稿の二枚目の動画で、最近できたFaculty for Justice in Palestine(パレスチナの正義のための教員連盟)のメンバーの教授たちが、式典に参加するときに「UMass57」と書かれたパッチを身につけていたこと。「57」とは、 10月に行われたUMassがパレスチナでの虐殺に間接的に関与していることに反対したプロテストで、大学警察に逮捕された57人の教員と学生たちのことをさす。特に人文科学・社会科学の教授たちは、こうした問題に対して、自分達の立場を利用して連帯を示す姿勢を持っていることに、涙が出そうになった。特権を持てば持つほど、保守的になることはとても容易い。自分の持つ力を維持するために、他の問題に目を背けることはどんなに容易いか。自分達が雇用されている大学の、社会問題に対する姿勢に反対することは、さもすれば自分に不利に働く可能性がある。でも、とある人類学の教授は、”tenure”と呼ばれる終身被雇用の権利を得た教授たちこそ、自分達の相対的に安定した雇用状況を使って、弱い立場にある人たちへの連帯を示さないといけない、と言っていた。ちなみに、二枚目の動画には、私がとてもお世話になったWomen, Gender and Sexuality StudiesのLaura Briggs先生も、「UMass57」のパッチをつけて歩いていて、なんだか嬉しくなった。
ヤベェ、今が一番しんどいかも(ラボに苦しむ4月)
ディスカッションの授業にはついていけるんだよ、予習をしっかりすれば。だってそのテキストのことしか話さんけん。でも、授業外の雑談が一番しんどい。どんどん進んでいく話題についていくことも、アメリカ人の内輪のノリや、お互いをイジりあうノリについていくこともできない。英語のスキルが足りないと自分を責めることもできるけど、それ以上の何かがある気がする。何か思い切って言ってみても、反応がない。「聴いてもらえている」という感覚がないから、もう何か言うのが嫌になる。誰も聴いてくれないなら、何言っても無駄やんって。私が入っ(ちゃっ)たラボは、国際政治のメジャーがほとんどで、社会学メジャーは私だけ。使う用語と視点が全然違う。全部が数字とセオリーで、肌触りがない。メンバーは多くが「社交的」で、アメリカのこういうすぐパーティーしたがる傾向についていけないし、楽しくないし、毎週水曜と金曜は、ラボに行くのがだんだん億劫になっていった。準備するのもしんどくて、何も発言できずに置いて行かれてしまったり。来年のラボのためのグラントの草案をかくタスクが一番しんどかったな。このラボでの他のアメリカ人の経験と、私の経験が違いすぎて。メンバーが、「このラボは楽だった、楽しかった」と言う横で、私は「とてもしんどかった、心理的安全性がすごく低くてきつかった」と思っていた。
このことを日本語も話せるアメリカ人の友達に話したら、「多分その難しさの理由は、英語力の問題じゃなくて、経験の問題だと思う」と言ってくれた。たとえば、こういうラボで発言するときの言葉の言い回しや返答の仕方は、アメリカの学生が小学校や中学校で学ぶもの。私はアメリカで教育を受けたことがないから、それがわからない。見よう見まねでやっていくしかない。一つ一つの発言に恐ろしく労力がいる。ネイティブよりも100倍疲れる。学生間のノリもそう。同じコンテクストを共有していなければ、ついていけないのもしょうがないだろう。それで縮こまってしまった自分自身を、「十分に社交的になれない」と責めてしまうのが、一番しんどかった。ちゃんと話を聞いてくれる人たちとなら、とても良好で豊かな関係性を築けるというのに。このラボでのしんどさに、自分の価値を定義されたくない。
通学路センチメンタル
今日ラボに向かう途中にふと思ったこと。「やっぱこの通学路、ほんと好きだな…」。正直日本に帰るのは楽しみだ。一息つきたい。でも同時に、この通学路が日常でなくなることに、とてつもない寂しさを感じるようになった。日本の通学は、1時間半、知らない人たちと詰め込まれて電車に揺られ、小中高、そして大学に向かっていた。ここでは、寮を出てクラスに向かうまで、知り合いに必ず一人以上出会った。通り過ぎる人とも、なんとなく顔見知りになってゆく。通りすがりに「洋服かわいいね!」と声をかけられたり、目があったらニコッと微笑みあったり。そういう一つ一つが嬉しくて、日常が豊かになって。春になって、道端に咲く花を見たり、香りを嗅いだりするのも好きだった。いろんな種類の桜が咲いては散り、野原にはたんぽぽとすみれ、目玉焼きみたいな色の水仙。キャンパスの西のはずれにあるジムの向こうには、夕焼けに染まる広い空。夕方5時には、教会の鐘が、どこか懐かしい音色を奏でる。
Zine、留学”やみ”日記を作ります
留学。それは、未知の出来事の連続。言葉の壁、慣れない食事、孤独感、恐ろしい勉強量、スムーズにはいかない友達作り、よそよそしい街と人。その中で、なんとかやってきた人たちの言葉には、独特の重みがあるなとずっと感じてきた。ここを離れる前に、そんな人たちの言葉を集めたzine(小さなマガジン)を作って、これからくる留学生の子たちや、今日々闘っている留学生たちに残せたら、と思って、「留学”やみ”日記」を作ることにした。コンセプトは、「しんどい時もある、でもあなたはひとりじゃない」、「雪解けの日は必ず来る」。親愛なる友達たちに寄稿をお願いして、デザインと編集を私がやってみようと思っている。どんなものが出来上がるか、とても楽しみだし、その過程のコミュニケーションや、自分の立ち回りを経験するとてもいい機会だと思っている。
最後の悪あがき、何ができる?やりたいこととやったほうがいいんだろうことの錯綜
週末には「ザ・アメリカ」を楽しみたいという気持ちは、やりたいことというよりも後々振り返った時にやってよかったと思うんだろうなっていう気もちに近い。たとえば、ヨッ友に誘われたダンスパーティーや、留学生のヨッ友に誘われた飲み会、大人数でのカラオケなどなど。でも実際は、慣れないことを日々こなして、緊張してつかれてを繰り返して、みるみる散らかっていった部屋をきれいにしたり、洗濯したり、本を静かに読んだりしたい。こっちの方が、本当のやりたいことなんだと思う。一種の防御反応に近いのかもしれないけど、開きっぱなしでは自分がちぎれていくから、一旦閉じて、落ち着く必要があると思うの。でもこの優先順位をつけるのが苦手で、よく金曜日が近くなると圧倒されてすごく気疲れしている。今週はそれこそ、セミ・フォーマルと言われるダンスパーティーと、カラオケパーティーと、友達と映画を見る約束が同じ日にかぶって、どれに行こうかとか、約束してしまった友達に申し訳ない気持ちとかで潰れそうになって、結局疲れて一人で過ごした。(この日の写真を後で振り返ったら恐ろしくおそろしく生気がなかったので、正しい判断だったと思う。)
最近の判断軸は、これだ。どこにいくかよりも、誰と行くか。どう見えるかよりも、自分がどう感じるか。パーティーで楽しむというのは、アメリカでは若干過大評価されている楽しみ方だ。私も何回か行ったけど、一緒に行く人の質で、その体験は180度違うものになっていた。飲みに行くとしても、話が合わない相手や疲れる相手なら、摩耗してしまう。
大学院プリキュア作戦、Twistが必要や
交換留学、簡単なことはなかった。これからの進路に向けて準備するにあたって、正規で来ればよかったと何度思ったことか。それはそれですこぶる大変なんだろうと思うんだけどね。
アメリカで、男性学の勉強を続けたいと思った。修士課程か、博士課程を、経済的に自立した上で取得するには、たくさんの壁がある。まず、自分は交換留学だから、アメリカでの学位がない。そして、ここでは男性学を授業で学べたわけではなくて、個人研究として進めたから、特段教授とのコネクションがあるわけではない。そして、留学生という難しい立場、英語の壁。私がこの勉強をアメリカで続けるには、Twist(ひねり/工夫)が必要だ。"I feel like this is impossible.(無理ゲーな気がする)"と友達に漏らしたら、その子が好きな言葉を教えてくれた。”Some say I can't. Some say I can. Both of them are true.(できないという人、できるという人、どちらも正しいんだよ)”。全てはどう自分が信じるか次第なんだ、と感じられた。
同じく大学院を目指す人類学メジャーの友達と、プリキュア大作戦を決意した。私たちは今、メタモルフォーゼの中にいる、と。大学院の切符をつかむために、何ができるんだろうか。ふたりはプリキュア世代の私たちは、渚と穂乃果どっちがいいかって話になった時に、「二人とも渚でいいんじゃない?」という結論になった。二人はプリキュアならぬ、二人は渚、さて未来はどう動くか。
自分と向き合うには、ある程度のdetatchが必要だ
私たちが自分自身と向き合うとき、自分像を感じる時、何が影響してくるんだろう。多様性とかいうけど、結局アメリカでも特定の理想像が何個も存在していて、みんなそのどれかになろうと必死に自分を構築している。たとえば、"that girl"トレンド。以下の定義はVice magazineより。
こんな感じで、誰もが憧れる、完璧な女の子を目指すトレンドがthat girlだ。たとえば、朝6時に起きて、抹茶ラテを作って飲んで、ヨガして、勉強も完璧にこなして…といった感じ。これらをチェックリストのように全うしたら、that girlになれる、というのがコンセプトなんだけど、これらはすごく社会的・経済的・恣意的に作られた、ほとんどの人にとって到達不可能なものなんだよね。だけど、多くの大学生(そして主に白人)はその像を求めて行動し、それらをSNSに発信することで周りから反応をもらい、そのアイデンティティを内面化していく。
他にも、アメリカで特に面白いと思ったのは、セクシーさを強調する女の子たちがとても多いということ。映画で男性主人公を魅惑するヒロインのような、そして雑誌「プレイボーイ」に出てくる水着の女性モデルのような、危うさと性的な魅力を兼ね備えた姿をアピールする人が多い。毎週末フラタニティや寮、学生の家で行われるパーティーに向かう女の子たちは、真冬でもランジェリーにデニムという、グループ全員が全く同じ格好をしていて、グループで写真を撮ってSNSに載せる、というところまでがセットだ。誰が一番クールか、を競い合うように、フィードは埋め尽くされてゆく。
どんなバイブスであったとしても、全てに通じているのが、自分の日々を、写真を通してわかりやすく配置・表現して、他の人に自分の人生がいかにクールかをアピールしているということ。これを書いている自分も、そういう傾向があることを、自戒を込めて残しておく。自分の価値を、友達をはじめとする不特定多数の人の目に委ねていた(いる)こと。その判断基準は、場所やコミュニティを変えればいとも簡単に変わるということ。
大学は似たような人たちと集まり、そのコミュニティの中で価値観が形成され、それにいかに近づけるかという戦いに陥りがちだ。恋愛も、相手を大事に思うかという以前に、相手がどれだけ自分の価値を肯定/規定してくれるか、という物差しになることもある。
日本の中高にいた時の、より女の子らしく、勤勉で、流行に敏感であるべきという価値観。大学に入り、より活動的で、社交的で、”国際的”であるべきという価値観。そしてアメリカの大学にきて感じた、パーティーに行き、セクシーで、成績が良くて、恋人がいるべきという価値観。これらは似通ったこともあれど流動的で、場所やライフステージ、コミュニティによって全く違う部分もある。SNSはこれらの価値観をアルゴリズムやキャッチーなトランジッション・音楽で強化しているし、人の人生の中の複雑さに対する回お像度がすこぶる低いから、自分と向き合う中で大きなノイズになりがちだと思う。やりたいこと、ありたい像ってのも、社会やコミュニティからの影響なしには成り立ち得ない。
残り2週間。焦らず、自分に正直に過ごしていければいいなと思っている。きっと将来、後悔は必ずする。でもそれを、自分なりに消化できるくらいの行動は、今でもできるはずだ。静かでも豊かな日々に乾杯!