日常のステップ #23 ウェス・アンダーソンと地獄
ウェス・アンダーソン監督作品との出会い
気分ってのは、物事の考えようにすぎない。そして、映画には、物事の考えようをガラリと変える力があると思っている。
そう思うようになったきっかけは、映画「グランド・ブダペスト・ホテル」を見て、絶望が小さな希望にきれいに変わってしまった経験からだ。
多くの制限の中でも、自分のこだわりを忘れずに生きること。
(自分の人生や、変人性にでさえ)誇りを持って生きること。
身をかけて、誰かや誇りを守ること。
この三つの学びと、美しい映像の記憶を残して、私のアオい絶望と無気力は見事に消え去ってしまった。
AWA展
そんな驚くような経験から2年ほど経ち、日本でAWA(Accidetally Wes Anderson)展が開かれるというので、ワクワクしながら行ってきた。
この展示では、ウェス・アンダーソン監督の映画に特徴的な、①左右対称②パステルカラーの強調③はっきりした模様のどれかを満たした写真たちが展示されている。つまり、「ウェスアンダーソンっぽい」展示だ。
会場で待っていたのは、地獄だった。
日曜の14:00。まさに一番混んでいる時間を選んでしまったのが運の尽き、1時間の入場待ちと、会場を埋め尽くす人の渦。明るい照明とカラフルな装飾も、これだけの人がいると、嫌な意味で圧倒されてしまう。
なによりも、すごく違和感を感じたのは、会場にいる人たちの、おそろしい画一性だ。
会場入り口には「写真撮影OK(Photography encouraged/「撮影推奨」という意味)」と掲げられ、多くの人が展示されている写真を次々にスマホで撮っていく。
写真の写真を撮るってなんだ、と思いつつ、その人たちによってせき止められてしまった空間を縫うように進んでいく。
通り過ぎる時にのぞいたスマホを掲げた顔たちは、(その写真を投稿する)未来に生きていて、今には実在していなかった。
そこにいる人たちは、どの写真にも、どの空間にも、同じような反応をするのだ。「いい感じ」「写真映えする」という感覚以外は、その場所に存在しなかった。
いつも美術館に行くとやるように、最初に最後まで見てから逆走してみて、やっと気づいた。そうだ、ここは、「〜っぽい」に過ぎない場所なんだ。
なんか見たことある気がする写真。(でも見たことはない。)
なんかおしゃれな写真。(いい感じにインスタに投稿しよう。)
なんか行ってみたい写真。(多分行かない。)
展示会場の空間装飾や写真たちは、たちまち人々の写真撮影の背景になりさがっていった。
これはもう、ウェス・アンダーソン監督のファンのためにあるというよりは、「(SNSに投稿できるような)いい感じの写真を撮りたい人たちから金を取って提供する、いい感じの写真撮影場所」に過ぎなかった。
あるのは、特に誰も苛立たせることのない無難な「よさ」と、その均一性だけだった。
「悲しみ方が足りない」
日常にまで視野を広げてみると、この展示みたいに、日々わたしたちが目にする世界は、内実の伴わない情報やイメージが氾濫している。
フィロソフィーがない。
肌触りを伴った記憶や温度感がない。
その情報や価値観が、相手に伝わる際の影響があまり考えられていない。
この気持ち悪さや疎外感は、画面の中で「いい感じ」を消費してきてしまった代償だと思った。このままだとダメになる。直感でそう思った。
その時、昔見たジャン・リュック・ゴダール監督の「イメージの本」の言葉を思い出した。
ここでの「悲しみ」は、肌感を伴ったリアルな感情、ということだと思う。
それがなくなり、頭でっかちな知識や空っぽなイメージばかりが出回った結果が、今のこのむなしさなのかもしれない。
この展示は、良くも悪くも自分に大きな影響を与えた。この展示で感じた気持ち悪さ、もう経験したくないけど、経験したおかげで自分のコアな部分に気づいた気がする。
「今」をそのままで感じられるようにいるには、自分の感性を鍛え続けなきゃいけない。
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