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人生ソフトランディングだと?!
元九大院生の事件に見る研究者の道のむずかしさ
とある雨の日。バイト先で日々のニュースを流し読みする。そこで目に留まったのが、2018年に九大の元大学院生が焼死した事件だった。
記事によると、46歳、元大学院生、職業不詳。憲法学の研究者を志し、しかし生活に困窮し、自ら火を放って自殺を図ったとされている。大学院博士課程に三年以上在学した後、就職の意志を持ちながら、定職が得られないまま研究を続けている人達、いわゆる「オーバードクター」だったとされている。
なにが、彼をここまで追いやったのか。特に、これから修士、いずれは博士を取りたいと思っている身として、恐怖とともに関心がわいた。
上の記事では、研究者や常勤講師という職業になれるか、そして成功できるかには、恐ろしい競争率のもと、本人の能力や意志以外の要素が絡まりやすいことが書かれていた。そして、筆者の大学院・大学の経歴や経験を踏まえて、大学院に行っても研究者にならなくてもいい、なれなくても人生に価値はあるという姿勢を持っておくことの重要さが強調されていた。その名も、「夢のソフトランディング」。時に夢に折り合いをつけて、現実とすり合わせていくこと。専業の研究者にならなければというゼロ/百思考に陥ると、「ハードランディング」で破滅的な結果になってしまうこともある。
サンクコスト効果
この記事には、もうひとつ面白いと思うコンセプトが書かれていた。その名も、「サンクコスト効果」である。
サンクコストとは、すでに支払ってしまい、取り返すことのできない金銭的・時間的・労力的なコストのことを言う。意思決定の中に、今まで費やしてきたコストが大きくかかわってきて、「これまでこんなにやってきたんだ、引き下がれない」となってしまうこと。記事の筆者の言う「人生のソフトランディング」を阻むものとして、これだけ学位のためにいろいろなものを投資し、犠牲にしてきたんだから、学位をとったり、研究者として成功しなくちゃ意味がない、という思考があるのだろう。
でもそこで立ち止まってでも考えなきゃいけないのは、「自分にとっての成功って何か?」だったり、「自分のコントロールできる範囲内で現実的に考えて、そして生きていくうえで何が最善の策か?」ということだ。もちろん一発逆転で来たらいいさ、運のビッグウェーブが回ってきたらいいさ、でもそれはくるかは神の味噌汁(神のみぞ知る)なわけだ。
ストイシズム:自分がコントロールできることだけを
この「自分がコントロールできることを」という考えは、とある哲学的背景を持っている。ストイシズム(ストア派)という、古代ギリシャの哲学者ゼノンによってはじめられた学派だ。高校の授業では禁欲主義とか習ったけど、実際にストイシズムの本を読んでみると、「自分でコントロールできる範囲とそうでない範囲を分けることで、自分の力を最大限に発揮できる」とするもので、すっと染み渡る感じの考えだった。去年の夏にキルギス人の高校生に教えてもらってから、アメリカで仲良くしていた友達の高校生の弟がストイズムの本を持っていて、かつニューヨークの安ホステルで知り合ったアメリカ人もストイズムの名言を座右の銘にしていたんだからびっくり。
この考えは、留学中に毒された、個人化された能力主義へのある種の解毒剤となるものだった。
”You can do anything”とはいうけれど:能力主義への下剤
留学を通してつけた「自分が挑戦すれば、また働きかければ、なにかが変わる、がんばれば目標は達成できる」という自己効力感。これは地味にあぶないものでもある。なぜなら、目標達成に必要な条件は、必ずしも能力や努力だけではないからだ。経済・社会資本、人とのつながりなどの環境的要因は社会階級で見事に階層化されている。そして、運。先ほども出てきた「ビッグウェーブ」という言葉は、私が海外大学院を目指して挫折しそうになっていた時に姉が話してくれたもので、海の波と機会のきまぐれさをかけていて、言いえて妙である。どれだけ努力して漕いでも、ビッグウェーブが来なければ波に乗ることはできない。どれだけもがいても、適切なチャンスやご縁がこなければ実らない。目標が達成できないことを、自分の努力や能力が足りないせいだと感じてしまうことは、長期的に心を苦しめることにつながる。
”And remember. You Can Do Anything!”
これは、交換留学中のインターン先のボスが、再び留学するために応募した奨学金の推薦書を書いてくれた時に、メールに添えてくれた言葉だ。ちなみに、彼は実際にしゃべるとものすごく鼓舞するような言葉を言ってくれるんだけど、自分で言った言葉を根こそぎ忘れていくタイプ。この推薦書も、お願いしてから2週間以上放置され、数回にわたるリマインドとお願いメールを経て、実現したものだった。「うん、ありがとう。(こんだけ放置されてもう無理だと思っていた)この推薦書をあなたに書いてもらえたら、もう何でもできる気がするわ。」とても気疲れする数週間で、なんだか嘆きたくなるほどだった。正直思う。自分が思い描いていた海外大学院へと導いてくれるくらいのコネクションは、まだ足りないなぁ。交換留学中必死にもがいたけど、どんぴしゃな人脈ってのを作るのは、そして出会うのは、とても難しかったなぁ、と。それでも、今ある大切なご縁を生かして、選べる選択肢をとっていくしかないのだ。それは、今は日本の大学院に進むことなのかもしれない。
自己実現と調和の塩梅:「西湖畔に生きる」を観て
昨日見た中国映画、「西湖畔に生きる」は、”自己実現と環境との調和のバランス”というとても大事なテーマを扱っていた。予告編の内容ではあるが、以下少々ネタバレが入る。
中国、杭州の茶畑で働くシングルマザーと大学を卒業した息子。母は、子供を出産後、母子を捨てた父(夫)に深く傷ついていた。階級社会の中での妬みや排除によってコミュニティを追い出された母は、違法ビジネス(ねずみ講)にのめりこんでいく。このカルト的ビジネスは、「成功」「自立」など、現代中国に生きる人々が喉から手が出るほど欲しがる概念を餌に、信者(社員)を増やしていった。「この商品を大量購入し、販売員になり、周囲にまた会員を増やせば、あなたは成功者になることができる」と。そして母も、このビジネスを通して、他者に捨てられ、追い出され、自分には価値がないと思っていた過去の自身を否定するように、理想像である「自立したビジネスウーマン」に自分を寄せていこうとする。でもその手段はまぎれもない詐欺であり、偽りはいずれ音を立てて崩れ去っていく。
この映画でとても印象的だったのが、この違法ビジネスで使われる自己実現ワードが、現実社会にもあふれる言葉だちだったことだ。成功、自立、富、名声、愛、、、これらを何のコンテクストもなしに叫び続けることで、みな陶酔に浸っていく。ふわふわ言葉は、とても聞こえがいい。でも、実体がない。結局わたしたちが感じ取れるのは、触れるものなんじゃないか。触れ合える周りの人との関係、自然のなかでの深呼吸、光や音や、季節の変化を、五感を通して感じ取ること。母親がのめりこむ狂乱と対照的だったのは、息子が愛する杭州の深く厳かな森だった。木々の一つ一つに意味を見出し、それらを愛で、自分の存在を委ねていく。自分は1人では存在するなんてできなくて、他者や自然の営みの中にいるんだということが、確かな実感と諦めの中で、浮かび上がってくる。そこには、自己実現の世界にはない、手触りがあった。
自己実現、それもいいけど
何のために自己実現したいのか。何を実現したいのか。最近気づいたけど、今までのいろんな選択には、間違いなく「自分には価値があるんだと、周りに認めてほしい」とか「すごいと思ってほしい」という感覚が強くあった。それは幼い頃から育んできたコンプレックスが原因だとか、分析することはできる。認めてほしいなんて、そんなのは良くない、とか否定することもできる。でも今やるべきは、「ああ、そうなんだね〜、認めてほしいんだね、わかるよ〜」と自分を受け入れて、目の前のことをやってみること。うまくいったらいいね〜くらいに思って、期待しすぎないこと。そして、「まぁでも今日雲きれいだよね〜、あと金木犀とか、もう秋の香りだよね」とか思いながら道を歩いたり、家に帰ったら父親がソファでピロピロ音を立てながらゲームしてて、母親が寝落ちしながらドラマを見てるこの日常が、留学先で自己実現するのと同じくらい豊かだと気づくことなのかもしれない。だってさ、気づいたら、指の間をすり抜ける砂のように、なくなってしまうかもしれないじゃんね。それこそ、神の味噌汁。
(トップ画像の写真クレジット:@shotafumoto)