日常のステップ #32 Humanityと入管問題
「人間讃歌」
東京都写真美術館で開催されている田沼武能の写真展「人間讃歌」を見てきた。
戦後の日本から始まり、世界中を旅して撮られた人々の生の輝き、生きる苦しみが描かれ、最後に私の大学の近くでもある武蔵野の情景が展示されていた。
英題は、"Viva! Humanity" である。humanityって、なんだろう。「人間味」、「人間性」… わたしは、人が生きる上で出てくる、酸っぱくも苦くもしょっぱくも甘い、「味」のようなものだと思う。
見知らぬ人に思わず手を差し伸べる瞬間や、電車で目が合って恥ずかしげに微笑み合う瞬間、空が綺麗だと目を輝かせる瞬間や、安心してぐーすか眠る人の寝顔を眺める瞬間、ラインのメッセージの打ち間違い… そんな時の中に、わたしの中の"humanity"は存在する。
旅する場所の数だけ豊かにある"humanity"は、どれも美しかった。結婚式や祭りの写真たち。その中の人々の踊りや笑顔は、人の生きる喜びを映し出しているようだった。一緒に行った友達は、《カーニバルでサンバに酔いしれる踊り手》を見て、「トランス状態に入れることも、人間ならではだよね」と言っていた。
それらの隣に映し出されるのは、貧困や、戦争、虐殺、死。
悲しきかな、これらもhumanityの側面の一つだ。誰も何も傷つけずに生きていける人はいない。それは、個々人でも集団としても、直接的にも構造的にも。そして、時に加虐が快楽にさえなってしまうこと。
しかし明るさと暗さは対称のものではなく、むしろ深くつながっている。苦難の渦中にいる子どもの目は何よりも輝いていて、死者の儀式は盛大に祝われ、大事な存在の破壊に際して集団は団結し、悲しみを通して人々は連帯・共鳴する。
humanityの再考
その後、ミュージアムに併設されたカフェでお茶をした。いちごチーズケーキと、黒糖ウィンナーコーヒー。いちごの鮮やかな赤に、ふたりしてテンションが上がった。アリエッティ用みたいな小さなスプーンでケーキを突きながら、アイデンティティとか、市民運動のこととか、将来のことを語り合った。そして、茶色いナプキンにそれらを書き殴った。
「一年とか留学したらさ、地元も、留学先も、本当の意味では"home"と思えなくなるってほんと?」
「学生時代に感じる"何者かにならなきゃ"って焦りってさ、他の人から見たときに"すごい人"にならなきゃっていう強迫観念から来てるよね」
「環境について考えることは、人について考えることなんだ」、それに呼応して、「死に方について考えることは、生き方について考えることなんだ」とか。
想像する。5時に起きてラジオ体操する、サングラスをかけてハーレイみたいなバイクに跨るお父さん。
どうしても存在する地域や階級の差から来る、「上品↔野蛮」の感覚、特権の自覚、「ミドルクラスのがらくた」、「グレ」/反発の方向性。
「結局humanityって、鼻くそほじることじゃない?」などなど。
心地よい反芻の時間
恵比寿駅で山手線外回りに乗る友達の背中を見送って、また美術館に戻るとき、私の心は、すごく軽やかで、でも満たされていて、とても落ち着いていた。
誰かと楽しい時間を過ごした後は、ひとりで反芻する時間が必要だ。
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の時間をかけるのが黄金比だと思ってる。
ふと聴きたくなった「ユモレスク」の軽やかなメロディ、時々訪れる短調な調べが、今の私たちの感覚や、これからの私たちの日々に寄り添ってくれるような気がした。
田沼武能の展示、素敵だったけど、私はもう一歩踏み込んで、人々のhumanityが、社会に与える影響や、社会が人々に与える影響、その中での試みとかも見たかったな、と思った。わたしは、humanityとsocietyのリンクに興味があるみたいだ。"humasociety"とかないかしら。
「名もなき」人々の肖像画
そんなことを考えていたら、一つの目標ができた。
生きながらえる人々、難民、「名もなき」人々の、肖像画が描きたい。「名もなき」とか言っても、そんな価値観は社会が決めたもので、実はちっぽけなものだ。
その人には関係性の数だけ名前があり、親から受け継いだ顔があり、物語があり、喜怒哀楽があり、怠惰さがあり、強さがある。それらの断片が描けたなら、そしてその描く行為そのものは、きっとhumanityの表現になるだろう。
「名もなき」難民たち
あーあ、こうして、今日入管法が改正されてしまった。改悪、の方が正しいだろう。「悪の凡庸さ」という言葉が浮かぶ。
政治や行政において、いろんな立場の人が必死に自分たちの正当性を示すために行動した結果、弱い立場の人たちが人間とは思えない仕打ちを受けることになる。
行政、法律、そこら辺の立場になったら、人権ってそんなに薄っぺらいものになっちゃうのかな。人の命も、権利も、人生も、こなしていくタスクになりさがってしまうのかな。
強行採決の時に、机に向かって粛々と署名する議員。後ろで飛びかかって阻止しようとする野党議員。それを制止しようとする与党議員。この人たち、何を思っているんだろう。夜は眠れるのだろうか。
「民主主義ってこんな感じだったっけ?」
「声を上げても、何も変わらないんだっけ?」
そうした無力感は、黒いベドベターみたいに、頭の端っこから段々と浸食してくる。そして、いろんな行動を、声を、ほかの立場の人たちへの共感の種を、諦めの水の底に沈めてしまう。
最後に、入管法に対するデモで読み上げられていた、七尾旅人さんのnoteを引用して終わります。この法の変化によって、失われてしまうかもしれない命を思うと、胸が強く痛みます。
おやすみなさい。
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