デマはデマゴギーじゃなくて、でまかせ?
デマのことを、僕はでまかせの略なんだとずっと考えていた。だが実際は違うらしい。
デマとは(特に集団的な行動、つまり政治的な目的で)人をだます意図をもって提示される情報のことを指す。
プーチンやトランプのやっているデマとかについては、以下の本がとても詳しい。たまにフィクションを書くときの説得力を求めて読むのだが、あまりに「事実は小説より奇なり」でむしろお腹を壊しそうになる。
いっぽうのでまかせは、
これはたまたま語感が近かったせいだ。
こうした言い間違いというのは言語の本質によるとどうもよくあることらしく、コラムにて子どもが言い間違いをしている事例についても紹介されている。
なら子ども以外は言い間違いはしなくなるだろう、みたいに思うかもしれない。だがそんなことはない。
かくいう大人の僕も、デマは、でまかせの略じゃないらしいのを最近知ったくらいだからだ。
高専生時代「ネトウヨってネットをウヨウヨしてる暇人のことでしょ?」と言って人を大笑いさせたりした。ネット右翼、だからそう間違ってないかもね、とはコメントはもらった。とはいえ僕は、言い間違いのスペシャリストといえるだろう。
というかそう割り切らないと、ペンディングだのといった、本来日本に住む者はGitHubと英単語辞書でしか以外では目撃しないだろう「無期限延期のニュアンスを持つ、未解決または保留中」を意味する横文字と常に格闘することができない。
ペンギンの歩み、ぺんぺんペンディング。
そんなオヤジギャグ的言い間違い学習を活用するのが、このエンタープライズだのセキュリティだのデジタルトランスフォーメーションなどの、結局何も言っていない言葉で酩酊し続け多額の無駄遣いをするIT業界で、正しいやりかたで無駄遣いを改善しつづける僕なりの方法なのだ。
そんな言い間違いスペシャリストの僕は今回、ひとつの仮説、いわば新説をあえて宣言してみたいと思う。
それが、
デマはデマゴギーじゃなくて、でまかせ?
という話だ。
デマゴギーとみなされても仕方のない、でまかせばかりの東京新聞の社説
東京新聞の今回の社説も、一種のデマとみなされても仕方がないのかもしれない。あまりにもひどすぎて、赤文字を凄まじい勢いで喰らっているほどだ。
普段だったら「ああ、東京新聞だから……」と無視してしまうのだけど、赤文字が入っているのを確認して、今回は真面目に読んでみた。
それで事実関係云々の以前だと思って、僕は記者の面目奥丸潰れなつぶやいた〜をしてしまった。
本を読まずにでまかせを言う大人たち
僕には素朴な疑問がある。
これだけ豊かな日本という国にいながら、事実関係を調査することはそんな難しいものではないはずである。それは新聞記者はなおさらだが、一般の人も含めてそうだ。
別にインターネットYAMEROしたとしても、天下の東京新聞なら数駅行けば絶対に巨大な書店が残っているし、図書館もあるわけで、なぜそうした努力をしていない、あるいは、できないのだろうか?
それで考え始めている仮説は、無知の知の自覚ができていない、って話になってくるのだと思う。
知らないことを知らない、だから調べる必要がなくて、社内レビューでも刺されなくて、結果報道後に厳しいレビューを喰らってしまう。その程度の話でしかなく、でまかせの自覚なくでまかせを言ってるだけなんだと思う。
かくいう僕だって、ネトウヨ=ネットをウヨウヨする暇人、とかいうでまかせを無自覚に言ってきたわけで、ほかにでまかせはない!と胸を張って言える自信はどこにもない。
広告とデマゴギーは本当は高くつくが、でまかせならタダ!いますぐ拡散!
デマゴギーを本当にやりきるためには、たくさんの人間に似たような調子でしゃべってもらわなきゃいけない。その広告料はあまりにも高すぎると思うし、でなければロシアのように暴力政治でやりくりするしかない。
いちばんてっとり早いのは、でまかせを盲信してもらうやりかたで、これはタダである。
タダというと、これはもう犯罪として立件するのはかなり厄介で、金銭的なやりとりの事実はないから、盲信した人が犯罪を起こさない限りは逮捕することはできないし、たぶんまだしてはならない。
だからデマは、デマゴギーはなく、でまかせのほうが近いような気がしてる。犯罪が起きるまで、手は出せそうにない。
とはいえ、早急に保護はしないと危険な気はしている。なぜなら盲信する人たちは、そこから何かを学ぼうとしている最中かもしれないからだ。
盲信している人たちは、学ぼうとしている?
マルチ、カルト、差別は、盲信者がそれらの知識を持たないがゆえに信じ込んでるようにみえる。だから盲信者は、間違ったものを使って世界を学ぼうとしているのかもしれない。
これはまぎれもない教育の敗北!なんていうのは簡単だが、僕はそれで割り切れるほど簡単に生きることができなかった。
少なくとも同棲していた元彼女はこのカルト、アトピー性皮膚炎による反病院で、危険な民間療法だのみになり、スピリチュアル系にハマり、僕はその全てを止められなかったからだ。
そのへんの「理解ある彼くん」だった頃から「ぼっちの先生」な今に至るまでの、僕の大やけど自己紹介は以下三部作で書いている。
元彼女を思い浮かべると、彼女なりに世界を学ぼうとしているその最中だったようにも見えなくもない。
ただ、人を信じれなくなったことですべての前提が壊れてしまっていたようにもみえた。そのあたりは、ケーキの切れない非行少年たちという漫画を読みながらふと結びついたことだった。
非行少年たちが、更生施設のなかで学んでいることを、元彼女はカルトを通じて学ぼうとしているかのようだったからだ。
犯罪をするなどで、更生施設等での保護をしてようやくこの作品に出てくる人たちは、公的な機関で、かつ正しくを受けることでうまくいったり、いかなかったりする。
公的機関でもそううまくいかないのだから、お金がかかりすぎるカルトでそうした教育に期待することは難しい。実際、僕は放任の姿勢で様子を見たが、ただただ元彼女の貯金が食いつぶされているだけだった。
人の事実か否かとか、信じるとか信じない、というものがどれだけ曖昧で、改善しようがなく、なくせそうにないものなのか、僕は思い知らされ続けてきている。
では僕らには、でまかせに対抗する手段はないのだろうか?
僕は、たぶんまだ簡単な方法はあるのかもしれないと思っている。
たくさんの人を信じて生きていくことによる、やりなおし
正直言って、事実か否かとかは、知識量と人的ネットワークを大幅に強化して、働きかつ祈りながら訂正し続けるしかなさそうだ。そのあたりのつまらない意見については、以下のたくさんの記事でいろんなことを書いてきた。
どれが事実か否かを、人は毎日図書館で二時間本を読み漁って改善していける、などと言う気はないし、毎日祈りを捧げろと言う気もない。むしろそんなことがずぼらな僕にはできないからだ。
それよりはむしろ、周囲にいる人たちと話をしながら、足りないものを自分で探して補いながら、仕事や学校で与えられた責任を果たし続けるしかなさそうだ。
逆に、お金や暴力でしか人とコミュニケーションができないという状況は可能な限り回避し続けないと行けないように思う。
ソシャゲガチャなどの賭博系、ブランドもの、その他なにかしらのステイタスとやらは、学ぶきっかけかもしれなくても、完璧からは程遠くみえる。
僕自身、ソシャゲガチャはこわいものだと思っていたけど、RPGをやりなおすために原神をプレイし始め、エウルア嬢確保のために25000円を投じてしまっている。何個steamでゲームを買えたのだろうか、と考えるとつらい。
しかしみんなが楽しむRPGのことを知りたいと思ったし、それを通してみんなと楽しくお話ししてみたいという魅力に、どうしても勝てなかった。
こうした弱さを僕も理解していくことで、でまかせやデマゴギーをただ断罪するだけのしょうもない大人じゃなくて、一緒にそれらを悩みながら前に進める先生になりたいな、と僕は思う。