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アパレルの氷河期で、私たちがユニクロで買ってきたものとその理由

ショッピングモールとユニクロと本と

ショッピングモール「ダイバーシティ東京 プラザ」。
そこでボロボロのポロシャツの代わりを探そうかとユニクロに向かっていたとき。
この本、「ユニクロ」を書店の平積み場所でみつけ、気づけば買っていた。

帰宅後に開いてみる。

服を売ることでの、ヒット、挫折、ヒット、挫折……その繰り返しがあまりにも克明に書かれていた。

さらにそこには、私が学生時代から会社員をしているいまなお迷い続けている、経営という迷路の難しさとその克服のしかたについてもわずかではあるかもしれないが書かれていた。

経営の本の、理論と実践を凝縮したかのようだ。

気づけば通勤時間も、この本にかじりついていた。そして朝は無印良品の「オレンジのチーズケーキ」を食べて、すぐにこの本に戻る。
積読が増えてくばかりの私にはめずらしい状況だった。

何をユニクロから買ってきたんだろう?

この大変面白い本のなかで、海外進出が失敗し、中国で学ぶという状況下での次の文がある。

中国では「服を売る前にユニクロを売れ」が徹底されていた。

杉本貴司「ユニクロ」

これはつまりどういうことかというと、

店に並ぶ服は全て日本と同じ。
店の内装も完全に日本と同じ。
接客方法も日本と同じ。

そうした完全なコピー品を、海外の現地採用者によってチェーン店のように展開したということだ。これによって、赤字続きだった海外事業を再建するに至ったという。

この本を読み切った私は疑問を持った。
ここまでやっても、この本の表現を借りれば「仏を作って魂込めず」にしかおもえなかった。

それで、「ユニクロとは何なのか」を求めてこの本を読むが、答えはすぐ出せそうになかった。
なにせ、創業者である柳井正氏が、この本の中で、なんならいまもずっと探しているようだったからだ。

だから、私はこう考えることにした。
私たちは何をユニクロから買ってきたんだろう?


アパレルの氷河期とユニクロとみんな

もしも明日出かける服がなかったら、みんな近場のユニクロに向かう。
つまり、GAPやGU、ワークマンといった、手頃な価格の店に向かう。

私たちはそうして「ユニクロ」で買ってきた。
つまり「ユニクロ」に類似した文化を買ってきた。

逆に言えば、明日着る服がないときに、わざわざ高価格帯の服を買いに行くことはない。
そういうのは、ユニクロ服で出かけた先。そこで気が迷ったときだけだ。
たとえば、SALEと書いてあって、値札に30%OFFと書いてある時とか。

そうしてどこかの店で手に入れた30%OFFのポロシャツは、すぐにほつれ、襟元もボロボロに劣化してしまった。おそらく同時期にユニクロで買ったポロシャツがそうなっていないにも関わらず。

この状況は、どうも私だけでは済まなくなっている。

アパレル業界全体が縮小している。
消費者庁主催イベントにおいて発表された、以下の資料のなかの「繊維産業の現状」においてもグラフは右肩下がりだ。

衣料品の国内アパレル市場規模は徐々に縮小しているとともに、国内事業所数は減少している。

経済産業省大臣官房審議官(製造産業局担当) 柴田 敬司「経済産業省説明資料」

「経済産業省説明資料」:
https://www.caa.go.jp/policies/future/topics/meeting_006/materials/assets/future_caa_cms201_1209_03.pdf

ところで、なぜSALEの30%OFFたちは存在するのか?
サステナブルな未来、つまり持続可能な未来、と付けられたこのイベントの資料でも次のように要約されている。

大量に生産・供給された商品は、正価販売のみで売り切ることは難しく、値引き販売が常態化。

経済産業省大臣官房審議官(製造産業局担当) 柴田 敬司「経済産業省説明資料」

SALEは、ユニクロも例外ではない。公式サイトもちゃんとセール品が出ている。

だが、私はSALEであることを理由にユニクロに行くことはほぼない。
いまボロボロになった30%OFFのポロシャツの代わりがほしいから、ユニクロに向かうのだ。

こうして、アパレルの氷河期をユニクロは生き延びているように見える。

だが、こうして万年セール状態のアパレルであるなら、SALEの文字を見つけてすぐに飛び込めばポロシャツを手に入れることだってできるはずだ。

特に私は、絵や小説の都合もあって、アパレルの潮流としてのスポーツウェアの流れを知って、服選びで手抜きをすることを覚えてしまった。

そのため、アスレジャーとスーツに寄った服装しか着ないので、本来服の調達が簡単なはずなのだ。

なぜ、私はそれでも他のアパレルを選ばず、ユニクロを買うのか?
やはり私は、他のお店のようなスーパーマーケット方式を求めている気がしている。特に、本屋さんのような。

ユニクロのタペストリー陳列の謎

ユニクロで買い物をしていて奇妙なのは、店頭にしろ店の中にしろ、凄まじい数の商品がみっちり詰められ、カラフルなタペストリーのように陳列されているところだ。

あの陳列の仕方を服でやるのは本当に手間がかかるはずだ。海外でも服を日本のユニクロのように並べることは反対されていたという。ハンガーでかけておけばいいじゃないか、という海外の従業員たちの見解には、私も合理性を感じるところがある。

なにせ私の自宅では、ユニクロの服はたたまれておらずすべてハンガーにかけられている。そうして、日々服の色を適当に判断して着て外へ出かける。

それでも、このタペストリー陳列をしていなかった頃はまったく海外での売上が振るわなかったという。

より正確には、そうした陳列の修正すらままならないほど従業員同士での信頼関係が瓦解していた状況がまずかったのかもしれない。

だが、それは置いておくとして、なぜあのタペストリー陳列が選ばれているのか、私も気になっていた。この本のなかでは、実はこの陳列の理由については言及されていないからだ。

いろいろ類似性のあるものを思い浮かべているときに思い出したのは、この本でも書かれているユニクロ創業期の次のチラシの売り文句だった。

「本屋みたいな、レコードショップみたいな、在庫ドッサリ、服屋さん。どうしてなかったんだろうね」

杉本貴司「ユニクロ」

そもそもの起点が、ユニクロの本を買った、あの本屋だったのだ。

本屋の店頭では、新刊が平積みで置かれている。店の奥に入れば、シリーズものの漫画や専門書が、びっしり並んでいる。

私は、まず新しい本で店頭で足を止め、その本を手にとって店の奥へと誘われる。そうして、買わなければならなかった本を思い出しながら手にとっていけば、いつのまにかお会計が5,000円以上になっている。ひどいときは10,000円だ。

ユニクロはこれと同じことを実現しようとしているのだろう。

私は、まず新しい服で店頭で足を止め、その服を手にとって店の奥へと誘われる。そうして、買わなければならなかった服を思い出しながら手にとっていけば、いつのまにかお会計が5,000円以上になっている。ひどいときは10,000円だ。

これを実現させるには、服で本屋のように陳列をせざるを得ない。

なにより、ハンガーにかけているときと比べて、服が平積みされていると色合いや形がわかりやすいことが多く、大量の商品を見せやすい。その商品の中でユーザーが気に入れば、その服は買われることになる。

一方でハンガーにかける場合だと、実は手に取るまで服の側面しかみえず、表側を見るには取り出さなくてはならない。

でなければマネキンに着せるか、わざわざ店頭でハンガーがけが必要になるが、どのみち平積みよりも陳列量が劣ることになる。海外でハンガー陳列していたときに商機を失ってきた理由も、ここまでくると腑に落ちてくる。

タペストリー陳列は一見すると非合理だが、回り回って本屋と同じ合理性を得られてしまうというわけだ。

こうしたユニクロの取り組みには、ユーザーは商品の価値を理解している、という信頼が見える気もする。

ユーザーは商品の価値を理解している

「私たちは何をユニクロから買ってきたんだろう?」
ユニクロで買っているのは、この「ユーザーは商品の価値を理解している」という信頼なのかもしれない。

ちょうど、有名な「特段フリースに言及しないでフリース来た人が出てくるだけ」なフリースのCMをつくったジョン・ジェイも、「ユニクロとはなにか」について次のように表現している。

「文化人もミュージシャンも小学生も同じ。我々はどの人にも同じように接している。どんな人生を生きたいか、生きているか。そのストーリーを本人に語ってもらう。そこにユニクロがある。それで何が言いたいかは伝わると思った。『我々は民主的な会社なんです』なんて言う必要がないんです。見る人のインテリジェンスに訴えかける内容だから」

杉本貴司「ユニクロ」

まさに「ユーザーは商品の価値を理解している」そのものだ。創業者である柳井正氏の信念にも、その様子がみてとれる。

「服に個性が必要なのではなく、それを着る人が着こなしてみて初めて個性が生まれるのが服というものだ」

杉本貴司「ユニクロ」

これらが、この本で言及されたところの、人生に役立つ服、LifeWear: ライフウェアということなのだろう。

この本に曰く、「老若男女も国も人種も問わずに、誰もが着ることができて環境や社会にも配慮した服」だ。

ユニクロと本屋、そしてアパレル業界

ユニクロと本屋には、似ているところがある。
ユーザーがいらないと思う商品を押し売りしようとしないところだ。

寒暖差がつらくてセーターがほしい人には、セーターを。
最新巻が出たばかりのマンガがほしい人には、マンガを。

そうして商品を選んだ人たちは、それぞれの人生へとまた向かっていく。そこから、柳井氏のいうところの「個性が生まれる」のだろう。

あまりにも当たり前に聞こえるが、一般的なアパレル業界では、SALEのときでも店員が訊ねてくることも多い。

どんなものをお探しですか、とは言ってくれるものの、そもそも陳列している商品の種類も少なく、独自性のある商品を提示できる店も限られるから、ハナからユーザーの期待に応えることが難しい。

だから、最後はセールになる前に売りきらないといけない新作の話をするしかない。

気づけば、「流行りです」だの「優れています」だの、業界全体に蔓延するマウンティングトークをして、いらないものを押し売りすることになる。それは、狭すぎる路地裏の一本道に、人の人生を押し込もうとするようなものだ。

それを嫌厭した、それぞれの人生を持っていて、単に服を買おうとしただけのユーザーは、仮に一回は買えども、その店からは当然離れていく。

一方で、服の価値ではなく、服が高価であること(つまり50,000円と書かれていたりその値段が知れ渡っているということだ)を通してしかコミュニケーションをとることができない人たちが、「高価」というステータスを買う。

生活を削って、狭すぎる路地裏の一本道に人生を押し込むように買い続ける。なぜなら、浪費以外で人に、あるいは人を通して自分に、喜んでもらう方法がわからないから。それ以外でどうやって自分の人生を見出せばいいか、わからないから。

これが、おそらくアパレル業界や、ブランドものと呼ばれるもの全体で可視化されつつある病理だ。

ここから離脱する方法は、ユーザーをギャンブル依存症やソーシャルゲーム依存症のように借金漬けにしてでも貪り尽くすことにはない。
役に立たない一本道のカルトもどきをすることでもない。

ユーザーは商品の価値を理解していると信じて、タペストリー陳列するしかないのだろう。

そうして私たちは、ときどき必要な時に、SALEかどうかに関わらずポロシャツやセーターを買って、それぞれの人生に向かうために、ユニクロを後にする。

ユニクロの服と私の現在の人生

私はこうして、ポロシャツとセーターを買って自分の人生に戻ってきた。

ポロシャツは、どこかの店で30%OFFの時に買ってきた、劣化したポロシャツと交換となった。見栄えは普通だが、どの服ともほとんどケンカしないため、服選びが難しくない。

セーターは、コンクリートジャングルを歩く中で寒暖差で腹痛になる現状を緩和するために買ってきた。これから病院にも相談しにいくつもりだが、セーターを室内で着れば腹痛もかなり素早く収まることがわかってきた。ありがたいことだ。

私の人生のなかに組み込まれたユニクロの服は、もしかしたらより「ユニクロらしい」企業によって置き換えられていくかもしれない。

それでも、また服が必要な時にはまずユニクロに足を運ぶことになるだろうし、この本を読みながらより良い製品やサービスのことに思いを馳せることになりそうだ。

私たちはこれまで間違いなく、ユニクロで人生に役立つ服ライフウェアを買ってきたのだから。

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