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『万葉集』巻第13-3270・3271 ~ 作者未詳歌

訓読

3270
さし焼かむ 小屋(をや)の醜屋(しこや)に かき棄(う)てむ 破(や)れ薦(ごも)敷きて うち折らむ 醜(しこ)の醜手(しこて)を さし交(か)へて 寝(ぬ)らむ君ゆゑ あかねさす 昼はしみらに ぬばたまの 夜(よる)はすがらに この床(とこ)の ひしと鳴るまで 嘆きつるかも
3271
我(あ)が心焼くも我(わ)れなりはしきやし君に恋ふるも我(わ)が心から

意味

〈3270〉焼き払ってやりたい汚らしい小屋に、放り捨ててやりたい破れ薦を敷いて、へし折ってやりたいあの女の薄汚い腕と腕を交して、今ごろ共寝しているだろうあなたを思うゆえに、昼は終日、夜は夜通し、私の寝床がみしみし音を立てるほどに、私は悲しく泣いている。

〈3271〉私の心を焦がすのも私のせい、あなたを恋しく思うのも私の心のせい。

鑑賞

 浮気をしている夫と相手の女に対する激しい怒りの歌です。「醜」は、汚いものをののしっていう語。長歌では、二人が抱き合っている場面を妄想し、実行すれば、放火、傷害、器物損壊などの犯罪に問われるような恐ろしいことを言っています。憎しみ、ののしりの語を多用し、まさに機関銃による連続攻撃のような嫉妬の炎となっています。しかし、それで気が晴れるわけでもない、反歌では、自己を分析するもう一人の自己が現れ、けっきょくは自分の恋心のせいだと嘆いています。

 3270の「さし焼かむ」の「さし」は、接頭語。「小屋の醜屋」の「の」は、小屋と醜屋が同格であることを示す語。「かき棄てむ」の「かき」は、接頭語。「破れ薦」といって薦をなじるのは、共寝のために女が用意する寝具であるから。「醜の醜手」は、汚らしくも醜い手の意で、手をなじるのは共寝の行為である手枕を連想するものであるから。「あかねさす」は「昼」の枕詞。「しみらに」は、終日。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「すがらに」は、始めから終わりまで。「この床のひしと鳴るまで」は、床(ベッド)がきしむ音のことを言っており、性的な妄想に取りつかれ、煩悶する寝姿を連想させる表現となっています。3271の「はしきやし」は、ああ、愛おしい。「我が心から」は、私の心のゆえに。
 
 この歌について、万葉学者の伊藤博は、「おそらく、集中で最高におもしろい歌であろう」と述べ、詩人の大岡信は、次のように評しています。「万葉集で激情の表現においてこの歌の右にでるものはない女の嫉妬と憤激。夫が他の女と夜を共に過ごしている情景を想像して、憎悪の限りを尽くして呪う。しかし、いったん激情がおさまった後は、他人を恨むことの空しさをしみじみ感じ、自己反省に沈潜している。反歌の内省の調べは忘れがたい秀逸。豊かな詩藻の持ち主、万葉女性歌人の層の厚さを感じさせる」。

 一方、作家の大嶽洋子は、「私自身の好みで言えば、反歌は要らないような気がする。意気高く挙げた拳を途中でしおしおと下ろしてしまったようで物足りない。ひょっとして、男性編集者がこの長歌があまりに過激だから、事知り顔にこの一首を添えることで中和したのかななどと疑ってもいる」と述べています。とはいうものの、反歌でのもう一人の自己を発見して後悔する声、この可愛らしさが救いとなっているからこそ、振り返って読む長歌の罵詈雑言が小気味よく耳に響くのでありましょう。


長歌と反歌

 長歌は、「5・7・5・7・7」の短歌に対する呼び方で、5音と7音を交互に6句以上並べて最後は7音で結ぶ形の歌です。長歌の後にはふつう、反歌と呼ぶ短歌を一首から数首添え、長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりします。
 長歌の始まりは、古代の歌謡にあるとみられ、『古事記』や『日本書紀』の中に見られます。多くは5音と7音の句を3回以上繰り返した形式でしたが、次第に5・7音の最後に7音を加えて結ぶ形式に定型化していきました。
 『万葉集』の時代になると、柿本人麻呂などによって短歌形式の反歌を付け加えた形式となります。漢詩文に強い人麻呂はその影響を受けつつ、長歌を形式の上でも表現の上でも一挙に完成させました。短歌は日常的に詠まれましたが、長歌は公式な儀式の場で詠まれる場合が多く、人麻呂の力量が大いに発揮できたようです。
 人麻呂には約20首の長歌があり、それらは平均約40句と長大です。ただ、長歌は『万葉集』には260余首収められていますが、平安期以降は衰退し、『古今集』ではわずか5首しかありません。
 

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