『万葉集』巻第15-3578・3579 ~ 遣新羅使人の歌
訓読
3578
武庫(むこ)の浦の入江(いりえ)の渚鳥(すどり)羽(は)ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし
3579
大船に妹(いも)乗るものにあらませば羽(は)ぐくみ持ちて行かましものを
意味
〈3578〉武庫川の河口付近の入江に巣くう水鳥が羽で包むように私を愛してくれたあなた、そのあなたと離れては、私は恋い焦がれて死んでしまいそうです。
〈3579〉大きな船にお前を乗せて行けるものであったなら、羽で包んでそっと抱えて行きたいものを。
鑑賞
巻第15の前半は、天平8年(736年)に新羅国(朝鮮半島南部にあった国)に外交使節として派遣された使人たちの歌が145首収められており、その総題として「遣新羅使人ら、別れを悲しびて贈答し、また海路にして情をいたみ思を陳べ、併せて所に当りて誦ふ古歌」とあります。一行が難波を出航したのは6月だったとされます。なお、遣新羅使は、571年から882年まで約3世紀にわたって派遣されましたが、『万葉集』に出てくるのは天平8年に派遣された遣新羅使たちの歌のみです。
この時の遣新羅大使に任命されたのは阿倍継麻呂(あべのつぎまろ)、副使は大伴御中(おおとものみなか:三中とも)、使節団の人数は総勢200人前後だったとみられ、遣唐使は4隻で船団を組みましたが、遣新羅使は何隻だったかは分かりません。歌が詠まれた場所をたどっていくと、難波を出航後、瀬戸内の岸辺伝いに各港や九州の能古島、対馬などを経て新羅に向かったことが窺えます。しかしながら、これらの歌が詠まれた時の新羅国と日本の関係は必ずしも良好ではなかったため、使節の目的は果たせなかったばかりか、往路ですでに死者を出し、帰途には大使が病死するなど、払った犠牲に対し成果が全く得られなかった悲劇的な使節でした。
副使の大伴御中は大伴家持の同族であり、同人が作った歌も2首含まれています。遣新羅使人らの歌は、往路で詠まれた140首、帰路で詠まれた5首からなり、御中がそれらを記録して、後に家持らに伝わったものとみられています。
3578は遣新羅使として旅立つ夫を送る妻の歌。「武庫の浦」は、兵庫県の武庫川の河口付近の海。 難波を出た使人たちの最初の宿泊地だったとされます。当時の船旅は、夜になると陸に上がって宿泊するのが普通でした。「渚鳥」は、洲にいる水鳥。「羽ぐくむ」は「育む」の語源となった言葉で、親鳥が羽で包んでひなを育てる意。「恋に死ぬべし」の「べし」は、推量。3579は、夫が答えた歌。「・・・せば・・・まし(もの)を」の表現は『万葉集』にしばしば見られ、ありえないことを空想し、それを願望する心を表しています。