
『万葉集』巻第12-3215・3216 ~ 作者未詳歌
訓読
3215
白栲(しろたへ)の袖(そで)の別れを難(かた)みして荒津(あらつ)の浜に宿(やど)りするかも
3216
草枕(くさまくら)旅行く君を荒津(あらつ)まで送りぞ来(き)ぬる飽(あ)き足(だ)らねこそ
意味
〈3215〉このままあの子と袖の別れをする気になれず、荒津の浜でもう一夜、舟を出さずに宿を取ることにした。
〈3216〉遠く旅立って行かれるあなたを見送りに、とうとう荒津までやって来てしまいました。なかなか別れがたくて。
鑑賞
問答歌。3215は、旅立つ男の歌、3214はそれに答えた女の歌です。3215の「白栲の」は「袖」の枕詞。「難みして」は、困難に思って。「荒津」は、福岡市中央区西公園付近にあった港。当時は大宰府の外港で、官船が発着していました。3216の「草枕」は「旅」の枕詞。「飽き足らねこそ」は「飽き足らねばこそ」の古格で、下に「あれ」が略されています。とても満足できないので。
荒津から船出する男は、大宰府の任が解けて帰京する官人であり、再会のあてのない旅立ちだったとみられます。女は誰だかわかりませんが、妻ではなく、大宰府あたりの遊行女婦だったようです。
作者未詳歌
『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。
7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、機内圏のものであることがわかります。